深夜二時の小さな国境

深夜二時の小さな国境 第6話「第五章:虚無の回廊(ノーマンズランド)」

検問所を通り抜けた先の世界は、もはや玲の知る物理法則には支配されていなかった。 足元の石畳は、歩くたびに柔らかい砂のように形を変え、あるいは水面のように波紋を広げ、確かな足場という概念を拒絶しているようだった。頭上には星のない、深い群青色の空がどこまでも広がっており、そこには巨大なクジラの骨のような雲が、音もなく回遊している。空気はひんやりとしていて、かすかに古い紙と沈丁花、そして雨上がりのアスファルトが混ざったような、懐かしくも切ない香りが漂っていた。 「姉さん、こっちだよ。足元に気をつけて」 奏が前を歩く。その背中は以前よりも少し小さく、そして透き通っているように見えた。幸福な記憶を一つ失

検問所を通り抜けた先の世界は、もはや玲の知る物理法則には支配されていなかった。
 足元の石畳は、歩くたびに柔らかい砂のように形を変え、あるいは水面のように波紋を広げ、確かな足場という概念を拒絶しているようだった。頭上には星のない、深い群青色の空がどこまでも広がっており、そこには巨大なクジラの骨のような雲が、音もなく回遊している。空気はひんやりとしていて、かすかに古い紙と沈丁花、そして雨上がりのアスファルトが混ざったような、懐かしくも切ない香りが漂っていた。
「姉さん、こっちだよ。足元に気をつけて」
 奏が前を歩く。その背中は以前よりも少し小さく、そして透き通っているように見えた。幸福な記憶を一つ失っただけで、人間の存在感というものはこれほどまでに希薄になってしまうものなのか。玲は言いようのない不安に駆られながら、彼が踏み出した足跡を正確になぞるように歩いた。奏が踏みしめた場所だけが、一時的に確かな硬度を取り戻すからだ。
 道の両脇には、巨大な書架のような岩が果てしなく並んでいた。岩の隙間からは、時折、光り輝く糸のようなものが溢れ出し、空へと昇っていく。玲が好奇心に負けてその一本に指先で触れようとすると、指先がピリリと痺れ、頭の中に直接、見知らぬ誰かの話し声が鮮明なイメージと共に流れ込んできた。
『――あの時、駅のホームで振り返って、「ごめん」って一言だけ言えてたらな。そうすれば、僕たちの夏はまだ続いていたはずなのに』
『――どうして私は、あの子の手を離してしまったんだろう。炎の中で、あの子の名前を呼ぶことさえできなかった。私の人生は、あの場所で止まったままなの』
 それは、この境界を越えていった無数の人々が、通行料として置いていった「過去」の断片、物語の原石だった。声は悲しみに満ちていたり、激しい後悔に震えていたりしたが、不思議なことにどれもがどこか清々しい響きを帯びていた。所有権を離れ、個人の胸の奥から解放されて「共有されるべき音」になった感情は、もはや誰かを内側から焼き尽くすような毒素を失っているようだった。
 だが、玲の喉にある石は、依然として重く、鋭く彼女の肉を内側から突き刺している。それはまだ「誰にも渡されていない秘密」であり、それゆえに猛烈な重力を持って彼女をこの境界の底へと引きずり込もうとしていた。
 地図が奏のリュックの中で、以前よりも激しく、熱を帯びて脈動し始めた。地図が放つ銀色の光は、周囲に立ち込める濃密な霧を強引に切り裂き、目に見えない道筋を強烈に照らし出している。だが、その光は玲の目には、母の細く白い指先が「こっちへ来なさい、玲」と優しく、けれど断固として手招きしているように見えて仕方がなかった。
 道は次第に細くなり、周囲の岩棚からは滴るように「未練」の雫が落ちてくるようになった。その雫が地面に触れるたび、小さな幻影が生まれては消えていく。幼い子供の笑い声、遠い日の祭りの囃子、誰かが誰かを呼ぶ切実な声。
 ふと、奏が唐突に足を止めた。
「……姉さん、聞こえる? 誰か、泣いてる。ううん、泣いてるっていうより、自分を責めてるみたいだ」
 玲も耳を澄ませた。確かに、道の先、霧の深淵から低く掠れた嗚咽が聞こえてくる。それは風の音にしてはあまりにも人間臭く、生々しい痛みを伴っていた。そして、その声には救いようのない絶望と、頑なな拒絶が混ざり合っていた。二人は慎重に、互いの体温を感じられる距離まで近づき、その声の主を探して一歩ずつ歩を進めた。霧の向こうで、何かが黒く蠢いていた。