深夜二時の小さな国境

深夜二時の小さな国境 第5話「第四章:奏の通行料」

沈黙が境界を支配した。サカキは急かす風でもなく、ただ静かに二人を見守っている。 玲が拒絶の意思を示そうとしたとき、隣にいた奏が不意に一歩前へ出た。 「僕が、先に払うよ」 玲は驚いて奏の袖を引いた。けれど、奏は首を振って玲の手を優しく解いた。 「姉さんは、まだその時じゃないんだ。僕が先に道を拓くから。サカキさん、僕の過去を受け取ってください」 サカキは薄く笑い、奏の額に指先を触れた。 「何を差し出す、少年?」 「僕が……姉さんと一緒に、最後に心から笑った時の記憶です。三年前の夏祭り。母さんもいて、リンゴ飴を食べて、花火を見て……あの時、僕たちは世界で一番幸せだった」 奏の声が震えている。それは彼

沈黙が境界を支配した。サカキは急かす風でもなく、ただ静かに二人を見守っている。
 玲が拒絶の意思を示そうとしたとき、隣にいた奏が不意に一歩前へ出た。
「僕が、先に払うよ」
 玲は驚いて奏の袖を引いた。けれど、奏は首を振って玲の手を優しく解いた。
「姉さんは、まだその時じゃないんだ。僕が先に道を拓くから。サカキさん、僕の過去を受け取ってください」
 サカキは薄く笑い、奏の額に指先を触れた。
「何を差し出す、少年?」
「僕が……姉さんと一緒に、最後に心から笑った時の記憶です。三年前の夏祭り。母さんもいて、リンゴ飴を食べて、花火を見て……あの時、僕たちは世界で一番幸せだった」
 奏の声が震えている。それは彼にとって、シエラでの灰色の生活を支えてきた、唯一の宝物のような記憶だったはずだ。それを手放すことがどれほどの苦痛か、玲には痛いほどわかった。
「よかろう。その記憶、確かに受理した」
 サカキが指を離すと、奏の額から淡い光の粒が吸い出され、小屋のポストへと吸い込まれていった。
 その瞬間、奏の表情から活気が抜け、どこか虚ろな影が差した。彼の首元には、まるで刻印のように薄紅色の痣が浮かび上がっている。
「……あれ、僕、何を話してたんだっけ」
 奏が首を傾げた。その瞳からは、先ほどまでの熱い決意が消え、ただ「姉さんを連れて行かなければならない」という義務感だけが残っているようだった。
「奏……」
 玲は声にならない叫びを上げた。弟は、自分を助けるために、自分たちを繋いでいた大切な記憶を捨ててしまったのだ。
「さあ、道は開かれた。進むがいい、越境者たちよ」
 サカキが道を開けた。検問所の先には、光さえ届かない暗い森のような道が続いていた。玲は奏の冷たくなった手を握り締め、暗闇の中へと足を踏み入れた。背後でサカキの笑い声が、霧に溶けていった。