深夜二時の小さな国境

深夜二時の小さな国境 第7話「第六章:物語の残滓との遭遇」

道の真ん中に、一人の男がうずくまっていた。 男はボロボロの背広を着て、頭を抱えて震えていた。その周囲には、黒い霧のようなものが渦巻いており、近づくことさえ躊躇われる禍々しい気配を放っている。 奏が声をかけようとしたが、男は突如として顔を上げた。その瞳は血走り、正気を失っているように見えた。 「……渡さない。これだけは、絶対に誰にも渡さないぞ!」 男は自分の胸元を必死に守るように抱え込んでいた。そこには、小さな黒い箱が握られていた。 「俺の地獄だ。俺が犯した罪だ。誰かに物語として読まれてたまるか。これは俺だけのものだ。俺が一生、この苦しみを抱えて死ぬんだ!」 男の叫びは、境界の静寂を切り裂いた。

道の真ん中に、一人の男がうずくまっていた。
 男はボロボロの背広を着て、頭を抱えて震えていた。その周囲には、黒い霧のようなものが渦巻いており、近づくことさえ躊躇われる禍々しい気配を放っている。
 奏が声をかけようとしたが、男は突如として顔を上げた。その瞳は血走り、正気を失っているように見えた。
「……渡さない。これだけは、絶対に誰にも渡さないぞ!」
 男は自分の胸元を必死に守るように抱え込んでいた。そこには、小さな黒い箱が握られていた。
「俺の地獄だ。俺が犯した罪だ。誰かに物語として読まれてたまるか。これは俺だけのものだ。俺が一生、この苦しみを抱えて死ぬんだ!」
 男の叫びは、境界の静寂を切り裂いた。サカキが言っていた「独占された記憶」とは、これのことなのだろうか。過去を預けることを拒み、自分の痛みを自分だけのものとして抱え込み続ける者。彼はルナへ行くこともできず、かといってシエラへ戻ることもできず、この虚無の回廊で永遠に自分の痛みを咀嚼し続けているのだ。
 玲は、その男の姿に自分自身を重ねた。
 自分もまた、あの事故の夜の記憶を、誰にも触れさせまいと喉の奥に閉じ込めてきたのではないか。母を助けられなかったという罪悪感を、自分一人で背負うことで、母への供養にしようとしていたのではないか。
 男が玲に向かって突進してきた。
「お前もそうだろ! その喉に詰まっているものを、誰にも渡したくないんだろ! だったら一緒にここで腐ろうじゃないか!」
 男の伸ばした手が玲の首筋に触れようとした瞬間、玲のリュックから母の地図が飛び出した。地図は強烈な光を放ち、男を弾き飛ばした。
 男は悲鳴を上げて霧の奥へと消えていった。残されたのは、静まり返った道と、激しく呼吸を乱す姉弟だけだった。
 玲は膝をつき、激しく咳き込んだ。喉の石が暴れている。男の言葉が、鋭い刃となって彼女の心を抉っていた。