深夜二時の小さな国境

深夜二時の小さな国境 第4話「第三章:検問官サカキの要求」

検問所の小屋の前には、一人の男が立っていた。 男は深い紺色の外套を纏い、縁の広い帽子を被っていた。その顔は帽子の影に隠れて判然としないが、口元だけが冷ややかに微笑んでいるように見えた。彼は手にした黒い帳面をめくり、二人を一瞥した。 「珍しい客だ。こんな時間に、こんな子供が二人で」 男の声は、古い蓄音機から流れるレコードのように掠れていた。 奏が勇気を振り絞って尋ねる。 「ここは、ルナへ続く道ですか?」 「いかにも。ここは境界だ。昨日の自分を脱ぎ捨て、明日の自分へと歩み寄るための場所」 男はサカキと名乗った。彼は玲の喉元を、射抜くような視線で見つめた。 「だが、タダで通すわけにはいかない。越境に

検問所の小屋の前には、一人の男が立っていた。
 男は深い紺色の外套を纏い、縁の広い帽子を被っていた。その顔は帽子の影に隠れて判然としないが、口元だけが冷ややかに微笑んでいるように見えた。彼は手にした黒い帳面をめくり、二人を一瞥した。
「珍しい客だ。こんな時間に、こんな子供が二人で」
 男の声は、古い蓄音機から流れるレコードのように掠れていた。
 奏が勇気を振り絞って尋ねる。
「ここは、ルナへ続く道ですか?」
「いかにも。ここは境界だ。昨日の自分を脱ぎ捨て、明日の自分へと歩み寄るための場所」
 男はサカキと名乗った。彼は玲の喉元を、射抜くような視線で見つめた。
「だが、タダで通すわけにはいかない。越境には対価が必要だ。君たちの人生において、最も重く、最も価値のある『過去』を一つ、ここに預けていってもらおう」
 玲は震える手でノートを取り出し、ペンを走らせた。
『預けた過去は、どうなるの?』
 サカキは玲の問いに対し、ゆっくりと小屋の横にある巨大なポストのような箱を指差した。
「消えはしない。ただ、君たちの所有物ではなくなるだけだ。それは物語として抽出され、対岸の街の風景の一部となる。君たちはその記憶を失い、軽やかになってルナへ入ることができる」
「失う……?」
 奏が息を呑んだ。
「そうだ。苦しみも、悲しみも、喜びも。預けてしまえば、それはもう君たちを傷つけることはない。忘却という名の救済だ」
 サカキの言葉は甘く、抗いがたい誘惑を含んでいた。もし、あの事故の夜の記憶を消すことができたら。母を助けられなかった罪悪感から解放されたら。玲の喉を塞ぐ石は、消えてなくなるのだろうか。
 けれど、過去を失うということは、今の自分を形作っているものを捨てることではないか。玲は恐怖で立ちすくんだ。