深夜二時の小さな国境

深夜二時の小さな国境 第2話「第一章:灰色のシエラと母の遺品」

シエラという街は、まるで古い写真の中に閉じ込められたような場所だった。 建物の壁は排気ガスでくすみ、道行く人々の肩は例外なく丸まっている。新しい店ができることもなければ、古い店が潰れることさえ稀だった。時間は流れているはずなのに、誰もが「昨日」の延長線上を歩いている。そんな停滞した空気が、この街の正体だった。 玲は十九歳になり、弟の奏は十五歳になった。二人は街の端にある小さなアパートで、ひっそりと暮らしている。玲はクリーニング屋の裏方で黙々と働き、奏は学校の帰りにスーパーで値引きされた惣菜を買ってくる。会話はない。玲が筆談用のノートを使い、奏がそれに明るく答える。それが二人の日常だった。 「ね

シエラという街は、まるで古い写真の中に閉じ込められたような場所だった。
 建物の壁は排気ガスでくすみ、道行く人々の肩は例外なく丸まっている。新しい店ができることもなければ、古い店が潰れることさえ稀だった。時間は流れているはずなのに、誰もが「昨日」の延長線上を歩いている。そんな停滞した空気が、この街の正体だった。
 玲は十九歳になり、弟の奏は十五歳になった。二人は街の端にある小さなアパートで、ひっそりと暮らしている。玲はクリーニング屋の裏方で黙々と働き、奏は学校の帰りにスーパーで値引きされた惣菜を買ってくる。会話はない。玲が筆談用のノートを使い、奏がそれに明るく答える。それが二人の日常だった。
「ねえ、姉さん。これ、見てよ」
 ある晩、奏がクローゼットの奥から一冊の古い革手帳を引っ張り出してきた。母の遺品だ。事故のあと、怖くて誰も触れられなかった箱の中に眠っていたものだ。
 玲が首を傾げると、奏は手帳の間に挟まっていた一枚の紙を広げた。
 それは、見たこともない奇妙な地図だった。道筋は描かれているが、地名が一切書かれていない。ただ、地図の端に、細い筆跡でこう記されていた。
『午前二時から三時まで。シエラとルナを繋ぐ橋の上で』
 奏の指が、地図の空白部分をなぞる。
「母さん、昔よく言ってたよね。この街の向こう側には、別の街があるって。そこに行けば、失くしたものが見つかるかもしれないってさ」
 玲はノートにペンを走らせた。
『ルナなんて街、どこにもない』
「でも、この地図、今夜の二時になったら光るんじゃないかって思うんだ。ほら、インクの色が変だろう?」
 確かに、地図に描かれた線は、鈍い銀色を帯びていた。それは街灯の光を吸い込み、呼吸するように微かに明滅している。
 玲は母の最期の言葉を思い出した。「物語にして」。その言葉の意味を、玲はまだ理解できていない。けれど、この地図が母の指し示した「物語」への入り口なのだとしたら。
 奏は玲の目を見つめ、真剣な声で言った。
「姉さんの声、あっちに行けば戻るかもしれない。行ってみようよ、姉さん。この街にいても、僕たちは昨日を繰り返すだけだ」
 玲は躊躇した。今のままでも、生きてはいける。けれど、奏の瞳に宿る微かな期待を、踏みにじることはできなかった。彼女は小さく頷き、母の地図を指先でなぞった。銀色の線が、彼女の指に吸い付くように冷たく光った。
 午前二時まで、あと三時間。二人は最低限の荷物をリュックに詰め、眠りについた街へと踏み出す準備を始めた。