深夜二時の小さな国境 第1話「プロローグ:砕けた月と沈黙の始まり」
雨は、すべてを塗りつぶすために降っているようだった。 三年前のあの夜、アスファルトを叩く音は、玲の鼓動よりもずっと大きく、冷酷だった。スリップした車のフロントガラス越しに見えた月は、歪んだ鏡のように砕けていた。 「玲、大丈夫……?」 隣の席で、母が掠れた声を出した。彼女の体はひしゃげたダッシュボードに挟まれ、身動きが取れなくなっていた。ガソリンの臭いと、鉄の錆びたような匂いが鼻をつく。玲は必死に手を伸ばし、母の冷たくなり始めた指を握った。 「お母さん、いま、助けを……」 そう言おうとした。けれど、喉の奥に熱い塊が詰まったようになり、音が出ない。肺から絞り出した空気は、意味を成さない溜息となって
雨は、すべてを塗りつぶすために降っているようだった。
三年前のあの夜、アスファルトを叩く音は、玲の鼓動よりもずっと大きく、冷酷だった。スリップした車のフロントガラス越しに見えた月は、歪んだ鏡のように砕けていた。
「玲、大丈夫……?」
隣の席で、母が掠れた声を出した。彼女の体はひしゃげたダッシュボードに挟まれ、身動きが取れなくなっていた。ガソリンの臭いと、鉄の錆びたような匂いが鼻をつく。玲は必死に手を伸ばし、母の冷たくなり始めた指を握った。
「お母さん、いま、助けを……」
そう言おうとした。けれど、喉の奥に熱い塊が詰まったようになり、音が出ない。肺から絞り出した空気は、意味を成さない溜息となって消えていった。叫びたいのに、喉が塞がっている。自分の名前を呼ぶ母に、たった一言「ここにいるよ」と伝えることさえできない。
遠くでサイレンの音が聞こえる。けれど、母の瞳から光が失われていく速度の方が、救助の足音よりもずっと早かった。
「玲、いい……? いつか、このことを……物語にして」
母の最後の囁きは、雨音に溶けて消えた。玲を車外へ押し出した母の力は、それが最後の一滴だったかのように途絶えた。
その夜から、玲の世界は音を失った。いや、世界は鳴り続けていたが、玲自身が音を発することを止めてしまったのだ。彼女の喉には、あの夜の沈黙が、重い石のように居座り続けていた。