ナイター照明が消えない球場

ナイター照明が消えない球場 第9話「第8章:十年前の豪雨の夜」

紬は市役所の地下資料室に籠もり、十年前の災害記録と当時の新聞記事を読み漁っていた。湿った紙の匂いと、カビの混じった空気。蛍光灯の微かな羽音だけが響く空間で、彼女は過去という名の迷宮を彷徨っていた。

紬は市役所の地下資料室に籠もり、十年前の災害記録と当時の新聞記事を読み漁っていた。湿った紙の匂いと、カビの混じった空気。蛍光灯の微かな羽音だけが響く空間で、彼女は過去という名の迷宮を彷徨っていた。

二〇一四年八月二十五日。雁首市を襲った集中豪雨は、一時間に百ミリを超える猛烈なものだった。球場の横を流れる雁首川は、普段の穏やかな姿からは想像もつかない濁流と化し、警戒水位を大幅に超えていた。当時の気象図を見れば、その雨がいかに異常だったかがわかる。球場周辺は低地であり、排水が追いつかずに道路は川のようになっていた。

マイクロフィルムのリーダーを回すと、湊の事故死を伝える小さなコラムが画面に現れた。
『高校生エース、濁流から少年を救い殉職』
 写真は、泥まみれで横たわる湊の遺体を運ぶ救急隊員の姿だった。美談として処理され、彼は街の英雄になった。しかし、その英雄譚の裏側で、紬はずっと拭えない違和感を抱えていた。湊はなぜ、あの嵐の中、一度避難したはずの球場へ戻ったのか。忘れ物というには、彼はあまりに慎重で、周囲への配慮を欠かさない性格だったはずだ。自分の命を危険にさらしてまで取りに戻るようなものが、野球道具以外にあるだろうか。

紬は当時の目撃証言を一つずつ、付箋を貼りながら精査した。近隣の住民、警備員、避難していた観客。断片的な情報を繋ぎ合わせていくと、ある奇妙な証言に行き当たった。湊が球場に戻る直前、土手の上で一人の少年と話していたというのだ。

「……源さん」

紬は資料室を飛び出し、雨の中を管理員室へ走った。息を切らしてドアを開けると、源さんはいつものように、古いラジオの裏蓋を開けてピンセットでいじっていた。そのラジオからは、雑音に混じって、まるで遠い異国の野球中継のような、不明瞭な声が聞こえてくる。

「源さん、教えてください。あの日、湊が助けた子供は……あなたの孫の、拓海(たくみ)くんだったんじゃないですか?」

源さんの手がピタリと止まった。ピンセットがカタンと机に落ちる。彼はゆっくりと顔を上げ、深い皺の刻まれた、苦悶に満ちた顔で紬を見つめた。その瞳には、十年間溜め込んできた涙が膜を張っていた。

「……よく調べたね、浅倉さん。隠しておくつもりはなかったんだが、言い出す勇気がなかったんだ」

源さんは絞り出すような声で語り始めた。
「あの日、拓海はまだ七歳だった。球場に忍び込んでいたんだよ。決勝戦が見たくてね。でもチケットは完売で買えなくて、フェンスの隙間から覗いていたんだ。試合が中断になって、パニックになった観客が避難を始めたとき、あの子は人混みに押されて迷子になった。そして、増水した川の近くにある排水溝の蓋が外れているのに気づかず、落ちそうになったんだ」

源さんは震える手で顔を覆った。
「湊くんは、避難バスに乗る直前だった。でも、拓海の泣き声に気づいたんだ。あの子は迷わずバスを降り、濁流の中へ飛び込んだ。拓海を岸に押し上げたとき、上流から流れてきた大きな流木が……湊くんを直撃したんだ。あの子は、拓海を助けた後、そのまま川に飲み込まれていった」

紬は息を呑み、拳を固く握りしめた。
「 Romano、源さん。湊が球場に戻ろうとしていたのは、拓海くんを助ける前ですよね? 彼は何を探していたんですか?」

「これのことかい?」

源さんが震える手で引き出しの奥から取り出したのは、ボロボロになった小さな革のケースだった。中には、野球バットのグリップ部分に巻くための、特注の牛革のテープが入っていた。表面には使い込まれた艶があり、湊が大切に保管していたことがわかる。

「湊くんは、これを律くんに渡そうとしていたんだ。あの日、試合が中断になる直前、律くんのバットのグリップが滑っているのを、彼はマウンドから見ていたらしい。あいつは誰よりも繊細な男だからな。『律は、気にしてないふりして、本当は緊張で手が汗ばんでるんだ。これがあれば、あいつは迷わず振れる。あいつに繋ぐまで俺は降りないって言ったけど、繋いだ後にあいつが困らないようにしなきゃいけないんだ』って、湊くんは笑っていたよ」

紬の視界が、涙で激しく歪んだ。
 湊は、自分の名誉のためでも、チームの勝利のためだけでもなく、ただ一人の親友のために命を懸けたのだ。親友が、最後の一振りを悔いなく終えられるように。そのための「安心」を届けようとして、嵐の中を逆走したのだ。

核心の真実が、十年の歳月を経て、ようやく紬の胸に届けられた。それはあまりにも切なく、けれどあまりにも湊らしい、優しすぎる真実だった。