ナイター照明が消えない球場 第6話「第5章:次打者、日比野くん」
日比野律は、工務店の作業場で一人、カンナをかけていた。木の香りが漂う中、シュッ、シュッという規則正しい音だけが響く。
日比野律は、工務店の作業場で一人、カンナをかけていた。木の香りが漂う中、シュッ、シュッという規則正しい音だけが響く。
彼の視線の先には、一台の長椅子があった。それは雁首市民球場のベンチと全く同じ寸法で作られている。座面には丁寧にやすりがかけられ、角は丸く削られている。しかし、背もたれの部分だけが未完成のまま、一ヶ月近く放置されていた。
「……打てなかった」
律はカンナを持つ手を止めた。
十年前の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
九回裏、二死満塁。打席に向かう律の耳には、スタンドからの割れんばかりの声援が届いていた。湊が八回までを一人で投げ抜き、ボロボロになりながらも繋いでくれたチャンスだ。
『律、あとは頼んだぞ』
ネクストバッターズサークルですれ違ったとき、湊はそう言って律の肩を叩いた。その手の熱さを、律は今でも覚えている。
バッターボックスに入り、土を均し、構える。湊がマウンドで大きく深呼吸をした。そのときだ。空が裂けたような轟音と共に、バケツをひっくり返したような雨が降り注いだ。
視界は一瞬で白く染まり、足元は泥濘んだ。審判が手を交差させ、試合の中断を告げた。
律はバットを構えたまま、動けなかった。
「まだだ! まだやれる!」
そう叫ぼうとしたが、雨の音に掻き消された。湊がマウンドから降り、ベンチへと戻っていく。それが、律が見た湊の最後の「野球選手」としての姿だった。
もし、自分がもっと早く打席に入っていれば。もし、初球を狙い打ってサヨナラ勝ちを決めていれば。そうすれば、試合は成立し、湊は忘れ物を取りに球場へ戻ることもなく、あの川で命を落とすこともなかったはずだ。
律は作業場の隅にあるバットケースを手に取った。中には、湊の妹である紬が中学の卒業祝いに贈ってくれた、アオダモのバットが入っている。十年間、一度も振ることのなかったバットだ。
彼はゆっくりとバットを引き抜いた。木の肌は冷たく、ずっしりと重い。
律は構えてみた。かつてのフォームは体が覚えていた。しかし、腰を落とし、バットを立てた瞬間、強烈な吐き気が彼を襲った。
「くそっ……!」
律はバットを投げ捨て、その場にうずくまった。
湊のいない世界で、自分だけが野球を続けることなんてできない。あの光り輝く球場は、自分に対する罰の象徴のように思えた。
そこへ、作業場の入り口に紬が立っているのが見えた。彼女は雨に濡れたまま、じっと律を見つめていた。
「律さん。湊はね、あなたを責めるために光ってるんじゃないわ」
「黙れ……お前に何がわかる」
「わかるよ。私だって、兄さんを救えなかった後悔で生きてきたんだから。でもね、あの球場で見ているうちに気づいたの。湊は、最後の一球を投げたいんじゃない。あなたに、最後の一振りをさせてあげたいだけなんだって」
紬は地面に転がったバットを拾い上げ、丁寧に泥を拭って律に差し出した。
「十年前の続きをしましょう。勝つためじゃなく、終わらせるために」
律は震える手でバットを受け取った。その重みは、もはや罰ではなく、一つの「託された意志」のように感じられた。