ナイター照明が消えない球場 第12話「第11章:九回裏、二死満塁」
記録会は深夜まで続いた。一人、また一人と打席に立ち、湊の投球を打ち返していく。ある者は涙を流しながら走り、ある者は湊に向かって感謝の言葉を叫んだ。そのたびに、照明塔の光は温かみを増し、球場全体が巨大な光の繭に包まれていくようだった。
記録会は深夜まで続いた。一人、また一人と打席に立ち、湊の投球を打ち返していく。ある者は涙を流しながら走り、ある者は湊に向かって感謝の言葉を叫んだ。そのたびに、照明塔の光は温かみを増し、球場全体が巨大な光の繭に包まれていくようだった。
そして、ついにその時が来た。
時計の針は午後十一時を回り、雨は十年前のあの日と同じ、激しい豪雨へと変わっていた。
「最終打者。四番、キャッチャー、日比野くん」
紬の声が、雨音を突き抜けて響いた。
スタンドの観客は総立ちになり、固唾を飲んでグラウンドを見守った。
律は、湊が用意してくれたグリップテープを固く、丁寧に巻き付けたアオダモのバットを握りしめた。革の感触が掌に吸い付き、まるで湊と握手をしているような錯覚に陥る。彼はゆっくりと、聖域へと足を踏み入れた。彼の足取りは、もはや重力に縛られていないかのように力強く、迷いは微塵もなかった。
バッターボックスに入り、律は湊を真っ直ぐに見据えた。
マウンドの湊は、激しい雨に打たれながら、かつてないほど鮮明で、生命力に満ちた姿で立っていた。彼のユニフォームの泥の汚れ、指先のタコ、そして何よりも、親友に向ける最高の、悪戯っ子のような笑顔。
律はヘルメットの庇を下げ、バットを一度、天に向かって突き立てた。
その時、スコアボードの数字が、雷鳴のような音を立てて書き換わった。
『九回裏 二死満塁 雁首 2 - 3 開明大附』
十年前の続き。世界が止まり、時が凍りついた、あの場所。
湊が大きく振りかぶった。
その瞬間、球場中の全ての光――住民たちの想い、紬の願い、律の決意――がマウンドの一点に集約された。雨粒の一粒一粒が湊のエネルギーになり、彼を光り輝く巨人へと変えていく。湊の右腕がしなり、空気を切り裂く。
湊が腕を振った。
放たれたボールは、もはや単なる白球ではなかった。それは湊が駆け抜けた短い人生の輝きそのもの、彼が救った拓海の未来、そして律に託した全ての祈りと信頼が凝縮された、目も眩むような光の塊だった。
律は、その光を逃さなかった。
グリップテープを通して、湊の心臓の鼓動が伝わってくる。
「……おおおおおおおおお!」
律は魂を削り出すような咆哮と共に、全身の全細胞の力をバットに込めて振り抜いた。
カキィィィィィィィィィィン!
金属バットの甲高い音ではない。最高級のアオダモが奏でる、低く、重厚で、けれどどこまでも澄み渡った音が、嵐の夜空を粉々に砕いて響き渡った。手応えはなかった。あまりに完璧な芯での捕球は、打者に衝撃さえ与えない。
打球は一直線に夜空へと舞い上がった。
それは照明塔の暴力的な光さえも追い越し、厚い雨雲を突き抜け、見えないはずの満天の星空へと吸い込まれていく白光の矢となった。
逆転満塁ホームラン。
律は走り出した。一塁を踏み、二塁を回り、三塁へ。
ダイヤモンドを一周する彼を、透き通った姿のチームメイトたちが、涙を流しながらハイタッチで迎える。彼らの手は冷たくなかった。そこには確かに、生きた人間と同じ熱があった。
そしてホームベースで待っていたのは、湊だった。
律がホームを踏んだ瞬間、湊は彼の手を強く握り、力強く抱きしめた。その感触は、十年前のあの日と全く同じだった。
『ナイスバッティング、律。お前ならやると思ってたよ』
その声は、雨音を消し去り、紬の耳にも、そしてスタンドで見守るすべての人々の心にも、直接響いた。
二人の姿が、ゆっくりと、金色の光の中に溶けていく。
グラウンドに立っていた幽霊の選手たちも、スタンドで声を枯らしていた幻影たちも、皆、この世で最も満足げな、晴れやかな表情で消えていった。
照明塔の光が、ふっと弱まった。
それは死者を縛る暴力的な白光ではなく、夜明けを告げるろうそくの火のような、穏やかで優しい余韻を残す光へと変わっていった。
紬はベンチに駆け寄り、泥に汚れたスコアブックを開いた。
九回裏、日比野の逆転本塁打。
彼女は震える手で、けれど一文字ずつ噛みしめるように、最後の一行を書き加えた。
『試合終了。雁首高校、優勝。――次の試合へ』
その瞬間、球場を包んでいた全ての超常現象が、魔法が解けるように消え去った。
雨はぴたりと止み、雲の切れ間から、祝福のような銀色の月が顔を出した。
照明塔の光は、静かに、けれど二度と灯る必要がないことを悟ったかのように、完全に消灯した。
そこにはもう、未練も後悔も、幽霊もいなかった。ただ、多くの人々に愛され、その役割を全うした野球場という名の、美しい記憶の残骸が横たわっているだけだった。紬は、静まり返ったグラウンドの土を一つまみ握り、ポケットにしまった。それは、彼女が一生持ち続ける、最も重い「記録」だった。