海底駅の最終乗客 第4話「第3章:生還者の眼差し」
地上と海底を繋ぐ緊急避難用シャトル――二十年前、乗客たちが脱出したのと同じ設計の機体――から降りてきたのは、知的な雰囲気を纏った三十代半ばの女性だった。 「雨宮志織(しおり)です。お忙しい時間に、本当にありがとうございます」 彼女は丁寧に頭を下げたが、その視線は鋭く、まるで駅の細部から失われた記憶を剥ぎ取ろうとするかのように、周囲を観察していた。彼女の持つボストンバッグは使い込まれており、そこから古いカメラのレンズと、ボロボロになった手帳が覗いている。 陸は彼女をコンコースのベンチへ案内した。 「取材なら、広報を通してもらわないと困ります。それに、もうすぐ閉鎖作業が始まりますから、長居はできま
地上と海底を繋ぐ緊急避難用シャトル――二十年前、乗客たちが脱出したのと同じ設計の機体――から降りてきたのは、知的な雰囲気を纏った三十代半ばの女性だった。
「雨宮志織(しおり)です。お忙しい時間に、本当にありがとうございます」
彼女は丁寧に頭を下げたが、その視線は鋭く、まるで駅の細部から失われた記憶を剥ぎ取ろうとするかのように、周囲を観察していた。彼女の持つボストンバッグは使い込まれており、そこから古いカメラのレンズと、ボロボロになった手帳が覗いている。
陸は彼女をコンコースのベンチへ案内した。
「取材なら、広報を通してもらわないと困ります。それに、もうすぐ閉鎖作業が始まりますから、長居はできません」
「わかっています。でも、私は記事を書くためだけに来たのではありません。ここは、私の時間が止まった場所なんです。二十年前のあの夏の日から、私の心はこの海底駅に取り残されたままなんです」
志織はガラス越しに深海の闇を見つめた。その瞳には、反射したコンコースの明かりと、深い悲しみが混ざり合っていた。彼女の指先は、無意識にバッグのストラップを弄っている。
「……雨宮さん。単刀直入に伺います。二十年前の事故のとき、あなたもここにいたのですか?」
志織の肩が微かに震えた。彼女はゆっくりと頷き、バッグから一枚の古びた写真を取り出した。
そこには、駅のホームで笑う若い頃の志織と、黄色いレインコートを着た少年が写っていた。背景には、かつての活気ある《深波》の様子が写り込んでいる。写真の隅には、少しだけ海水のシミのような跡が残っていた。
「私の弟、海斗です。あの日、私たちは家族でここへ遊びに来ていました。父は仕事で来られませんでしたが、母と三人で。でも、突然の揺れが来て、電気が消えて……パニックの中で、私は海斗の手を離してしまった。必死に探したけれど、暗闇と怒号の中で、あの子を見失ったんです。母も怪我をして、私は駅員さんに引きずられるようにシャトルに乗せられた」
彼女の声は掠れていた。
「公式記録では、死者はいないことになっています。でも、海斗は戻ってこなかった。駅長さんは『海斗くんは別のシャトルに乗せたはずだ。きっとどこかの病院にいる』と言い張りました。警察も、混乱の中での行方不明として処理し、やがて死亡認定が下りた。でも、私は信じられなかった。あの子は、今もこの海の底で、私を探しているんじゃないかって。冷たい水の中で、一人ぼっちで……」
陸は、ポケットの中の硬券を握りしめた。その冷たさが、彼の掌に刺さるように伝わってくる。
「駅長……僕の祖父、真壁宗一郎は、あなたに何か言っていましたか?」
「いいえ。ただ、申し訳なさそうな顔で、私にこれを渡してくれました」
志織が差し出したのは、小さな貝殻のペンダントだった。深海で採れる珍しい種類のもので、淡いピンク色の光沢がある。
「海斗が大切にしていたものです。駅長さんは、これを『ホームに落ちていた』と言って届けてくれました。でも、もし海斗がシャトルに乗ったのなら、なぜこれが落ちているのか。なぜ、彼だけが帰ってこなかったのか。私は二十年間、その答えを探し続けてきました。フリーライターになったのも、各地の事故記録を調べるためだったんです」
陸は確信した。祖父は嘘をついていた。そして、その嘘はこの駅の構造そのものに関わっている。
「雨宮さん。実は、さっき……3番ホームで、海斗くんに会いました」
志織の顔から血の気が引いた。彼女は陸の腕を、骨が軋むほど強く掴んだ。
「何を言っているの? 海斗は……あの子はもう二十年も前に……。そんな残酷な冗談はやめて!」
「冗談じゃありません。僕も信じられませんが、彼はこれを僕に渡したんです」
陸が硬券を見せると、志織はそれを奪い取るようにして見つめた。
「海斗の……海斗の字だわ。裏に、自分の名前を書く癖があったから。この『き』の形、あの子独特のものなの」
切符の裏には、子供らしい拙い筆致で『あめみやかいと』と記されていた。その文字は、二十年の歳月を感じさせないほど鮮明で、まるで今書かれたばかりのように見えた。
「彼は言っていました。『お姉ちゃんと一緒に帰る約束をしたから』って。彼は待っているんです。3番ホームで。そして、この駅が消える前に、地上へ帰りたいと願っている」
その時、駅全体に地響きのような大きな振動が走った。
単なる老朽化の軋みではない。それは、何かが目覚めるような、あるいは何かが崩壊を始めるような、深い場所からの叫びだった。コンコースのガラスがビリビリと震え、深海の闇が一段と濃くなったように見えた。
「行きましょう、雨宮さん。真実を確かめるために。そして、海斗くんを連れ戻すために」
陸は志織の手を引き、再びあの立ち入り禁止の場所へと走り出した。