海底駅の最終乗客 第3話「第2章:二十年前の刻印」
事務室に戻った陸の指先は、まだ微かに震えていた。 机の上に置かれた硬券を見つめる。二〇〇六年八月十五日。あの日、何が起きたのか。 陸は端末を叩き、二十年前の事故記録を呼び出した。公式のアーカイブには、当時の英雄的エピソードがこれでもかと並べられている。当時の新聞記事の見出しが画面に躍る。『深海の英雄、八十二名を救う』『奇跡の生還劇、死者ゼロの快挙』。 『二〇〇六年八月十五日、午後二時四十分。海底駅《深波》において、地殻変動に伴う小規模な浸水が発生。駅長・真壁宗一郎の迅速な判断により、当時駅にいた乗客八十二名全員が、緊急避難用ケーブルカーにて無事帰還。負傷者数名、死者ゼロ。浸水箇所は即座に封鎖さ
事務室に戻った陸の指先は、まだ微かに震えていた。
机の上に置かれた硬券を見つめる。二〇〇六年八月十五日。あの日、何が起きたのか。
陸は端末を叩き、二十年前の事故記録を呼び出した。公式のアーカイブには、当時の英雄的エピソードがこれでもかと並べられている。当時の新聞記事の見出しが画面に躍る。『深海の英雄、八十二名を救う』『奇跡の生還劇、死者ゼロの快挙』。
『二〇〇六年八月十五日、午後二時四十分。海底駅《深波》において、地殻変動に伴う小規模な浸水が発生。駅長・真壁宗一郎の迅速な判断により、当時駅にいた乗客八十二名全員が、緊急避難用ケーブルカーにて無事帰還。負傷者数名、死者ゼロ。浸水箇所は即座に封鎖され、被害の拡大は食い止められた』
記録は完璧だった。一点の曇りもない、模範的な危機管理の事例として、今でも研修などで使われているほどだ。だが、陸は違和感を拭えなかった。祖父の遺品の中にあった、あの古い鍵と日誌。そして、祖父が晩年に繰り返していた「すまない」という独り言。
「八十二名……全員……?」
陸は、祖父が遺した私的な品々の中にあった、古い乗客名簿の写しを思い出した。それは祖父が亡くなる間際、陸に「いつか必要になる。お前なら、この意味がわかるはずだ」と言って託したものだ。当時は何のことかわからなかったが、陸はそれを大切に保管していた。
引き出しの奥から、茶色く変色したその名簿を取り出し、事故当日のページを開く。そこには、公式記録とは異なる数字が並んでいた。
乗車予定者、八十三名。
一人足りない。
名簿の最後には、鉛筆で殴り書きのような文字が記されていた。筆圧が強く、紙が破れかけている。
『雨宮海斗(あめみや・かいと) 十歳 第四区画付近にて行方不明。ハッチ閉鎖の際、取り残された可能性大』
陸の背筋に冷たいものが走った。先ほどの少年の姿が脳裏に蘇る。あの黄色いレインコート。濡れた髪。そして、二十年前の切符。
「死傷者ゼロじゃなかったのか……? じいちゃん、あんたは何を隠したんだ。一人の子供の命を、この駅の『成功』のために捧げたのか?」
陸は祖父の英雄像が、音を立てて崩れ落ちるような感覚を覚えた。祖父は、一人を見捨てたのか。そして、その事実を組織の論理で闇に葬ったのか。
その時、事務室の固定電話が鳴った。廃線作業の最終確認のための連絡かと思ったが、受話器から聞こえてきたのは、聞き覚えのない、だがどこか切羽詰まった女性の声だった。
『夜分に失礼します。私、フリーライターの雨宮(あめみや)と申します。《深波》の最終列車を取材したくて、今、地上の連絡通路のゲートにいるのですが』
雨宮。その姓に、陸は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。
「雨宮……さんですか?」
『はい。ご迷惑なのは承知しています。でも、どうしても今日でなければならなかったんです。明日の廃線とともに、海の底に消えてしまうものがあるから。私にとって、それは命よりも大切なものなんです』
陸は迷った。本来なら、こんな時間に部外者を入れることは許されない。だが、あの少年の瞳と、手元の切符が、彼に「イエス」と言わせた。
「……わかりました。ゲートを開けます。緊急シャトルで降りてきてください。ただし、時間は一時間だけです」