海底駅の最終乗客 第2話「第1章:幽霊ホームの乗客」
足音は、現在は安全上の理由から立ち入りが禁止され、重いシャッターで閉ざされているはずの「3番ホーム」から響いていた。 3番ホームは、かつて資源搬出用の貨物列車が発着していた場所だ。旅客用ホームよりもさらに深く、海に近い場所に位置している。陸は懐中電灯を手に取り、錆びついたシャッターの隙間を潜り抜けた。シャッターが軋む音が、深海の静寂を切り裂く。 埃っぽい空気の中に、強烈な潮の香りが混じっている。おかしい。ここは完全密閉された、循環空気の空間のはずだ。なのに、まるで今さっき海から引き揚げられたばかりのような、生臭い、だがどこか懐かしい水の匂いが鼻を突く。 「誰かいるのか?」 陸が懐中電灯の光を向
足音は、現在は安全上の理由から立ち入りが禁止され、重いシャッターで閉ざされているはずの「3番ホーム」から響いていた。
3番ホームは、かつて資源搬出用の貨物列車が発着していた場所だ。旅客用ホームよりもさらに深く、海に近い場所に位置している。陸は懐中電灯を手に取り、錆びついたシャッターの隙間を潜り抜けた。シャッターが軋む音が、深海の静寂を切り裂く。
埃っぽい空気の中に、強烈な潮の香りが混じっている。おかしい。ここは完全密閉された、循環空気の空間のはずだ。なのに、まるで今さっき海から引き揚げられたばかりのような、生臭い、だがどこか懐かしい水の匂いが鼻を突く。
「誰かいるのか?」
陸が懐中電灯の光を向けると、そこには一人の少年が立っていた。
年齢は十歳前後だろうか。黄色いレインコートを着て、短パンにスニーカーという、深海にはおよそ不釣り合いな格好をしている。少年の体は、まるで海から上がってきたばかりのように、しっとりと濡れていた。レインコートの裾からは水滴が絶え間なく滴り、足元に大きな水溜まりを作っている。その水溜まりには、懐中電灯の光が反射し、奇妙な虹色の輪を描いていた。
「……お兄ちゃん、駅員さん?」
少年の声は、澄んでいて、どこか遠い場所から響いているようだった。それは、水の底で誰かが叫んでいるのを、水面で聞いているような、奇妙な歪みを伴っていた。エコーが不自然に長く、まるで駅の構造体そのものが声を反響させているかのようだ。
「ああ、そうだけど……君、どこから入ったんだ? ここは立ち入り禁止だよ。それに、もうすぐ閉まるんだ。地上の家族のところへ帰らなきゃいけないんだろ?」
陸が近づこうとすると、少年は一歩後ろに下がった。その動きに合わせて、足元の水溜まりが生き物のように揺れる。しかし、天井を見上げても水漏れの形跡はない。この水は、少年の内側から染み出しているようだった。彼の肌は青白く、まるで陶器のような質感を帯びている。
「切符、持ってるよ。だから、乗せてほしいんだ」
少年が差し出したのは、現在使われているICカードでも磁気券でもなかった。それは、二十年前に廃止されたはずの、厚手の硬券だった。
陸は躊躇いながらもそれを手に取り、言葉を失った。
指先に触れる切符は、氷のように冷たかった。まるで、今しがた冷凍庫から取り出されたかのようだ。表面には、掠れた文字で『深波から 地上へ』と印字されている。そして日付の刻印は――二〇〇六年八月十五日。
陸の脳裏に、あの日付が閃光のように走った。
二〇〇六年八月十五日。それは、祖父が英雄になったあの日、海底避難事故が起きた当日だった。
「これ、どこで手に入れたんだ? 君のパパやママのものか?」
「ずっと持ってたんだ。お姉ちゃんと一緒に帰る約束をしたから。お姉ちゃん、僕の手を離しちゃったけど、きっと待ってると思うんだ。駅長さんも、これをずっと持ってなさいって言ってくれたし」
少年の瞳には、深い海の底のような静かな悲しみが湛えられていた。その瞳を見つめていると、陸は自分が深い水の底へ引きずり込まれるような錯覚に陥った。周囲の音が遠のき、耳の奥でゴボゴボという水の音が聞こえ始める。
「君の名前は?」
「海斗(かいと)。雨宮海斗だよ」
その名を聞いた瞬間、駅全体の電力が激しく不安定になり、照明が激しく明滅した。非常用電源に切り替わる際の低いブザー音が響き、視界が赤く染まる。天井の通気口から、冷たい霧のようなものが吹き出してきた。
数秒後、照明が復旧したときには、3番ホームには陸一人だけが残されていた。足元の水溜まりも、跡形もなく消えていた。手元に残った、あの冷たく硬い切符だけが、それが現実であったことを証明していた。陸は自分の指先を見つめた。そこには、少年のレインコートから移ったと思われる、一滴の水が光っていた。