海底駅の最終乗客

海底駅の最終乗客 第1話「プロローグ:深海の残照」

海抜マイナス一、〇〇〇メートル。そこは、光が死に絶えた世界だ。 地上でどれほど太陽が眩しく輝いていようとも、この場所には届かない。厚さ五十センチメートルの特殊強化アクリルガラスの向こう側にあるのは、ただひたすらに重く、粘り気のある紺碧の闇だ。時折、自ら光を放つ深海魚が、まるで流れ星のように闇を横切り、あるいは巨大なダイオウイカの影が音もなく通り過ぎる。それ以外、ここには生命の温もりを感じさせるものは何一つ存在しなかった。 海底終着駅《深波(みわ)》。 かつて、この駅は「蒼海線(そうかいせん)」の誇り高き終着点として、深海資源採掘の黄金時代を象徴する場所だった。日本海溝の縁に穿たれたこの巨大な鋼

海抜マイナス一、〇〇〇メートル。そこは、光が死に絶えた世界だ。
 地上でどれほど太陽が眩しく輝いていようとも、この場所には届かない。厚さ五十センチメートルの特殊強化アクリルガラスの向こう側にあるのは、ただひたすらに重く、粘り気のある紺碧の闇だ。時折、自ら光を放つ深海魚が、まるで流れ星のように闇を横切り、あるいは巨大なダイオウイカの影が音もなく通り過ぎる。それ以外、ここには生命の温もりを感じさせるものは何一つ存在しなかった。
 海底終着駅《深波(みわ)》。
 かつて、この駅は「蒼海線(そうかいせん)」の誇り高き終着点として、深海資源採掘の黄金時代を象徴する場所だった。日本海溝の縁に穿たれたこの巨大な鋼鉄の要塞には、かつて数千人の作業員と、彼らを支える家族たちがひしめき合っていた。コンコースには賑やかな売店が並び、子供たちの笑い声が反響していたという。駅の壁面には、深海都市の未来を夢見る極彩色の壁画が描かれ、人々の希望を煽っていた。
 だが、資源の枯渇と維持費の爆発的な高騰は、その繁栄をあっけなく過去のものとした。明日、この駅は正式に廃止され、全ての電力と生命維持装置が停止される。そして数日後には、かつて人間がいた証拠を消し去るように、海水が注入されることになっている。
 駅員見習いの陸(りく)は、誰もいない広大なコンコースで一人、古びた真鍮の時計を見上げていた。時計の針は午後十時を指そうとしている。地上へ向かう最終列車の発車まで、あと二時間。
「……結局、最後までこのままか」
 陸の声は、重苦しい水圧に押さえつけられるように、足元へ沈んでいった。空調設備が吐き出す乾いた風が、彼の頬をかすめていく。その風には、どこか鉄の錆びた匂いと、何十年も閉じ込められてきた古い空気の澱みが混じっていた。
 陸がこの駅で働くことを選んだのは、ある種の義務感からだった。彼の祖父、真壁宗一郎はこの駅の初代駅長だった。二十年前、この駅で起きたとされる「小規模な浸水事故」の際、迅速な避難誘導で乗客全員を救った英雄として知られている。幼い頃、陸は祖父の膝の上で、その武勇伝を何度も聞かされた。
『陸、鉄道員にとって最も大切なのは、乗客を目的地へ届けることだ。たとえそれが、どんなに困難な道であってもな』
 そう語っていた祖父の瞳には、いつも言いようのない寂しさが宿っていた。祖父は数年前に亡くなったが、死の直前まで一冊の日誌と、どの扉にも合わない古い真鍮の鍵を握りしめていた。その鍵は、祖父の手のひらの形に摩耗し、鈍い光を放っていた。
 陸が実際にこの駅で働き始めて半年。彼が感じたのは、憧れていた英雄の足跡ではなく、駅の隅々に染み付いた、何かを隠し通そうとするような沈黙だった。記録と記憶の食い違い。そして、深夜のホームで時折聞こえる、説明のつかない「水の音」。それは、誰かがバケツの水を床にぶちまけたような、唐突で湿った音だった。
 明日になれば、すべては海の底へ沈み、永遠に失われる。陸は、その終わりを見届けるためだけに、この孤独な駅に残っていた。彼は、自分の家系がこの駅に負っている「負債」を、自分なりに清算しようとしていたのかもしれない。
 その時だった。
 入線チャイムも鳴っていないはずのプラットホームから、微かな、だが確かな足音が聞こえてきた。
 それは、濡れた靴が床を叩くような、ペタペタという湿った音だった。静まり返ったコンコースに、その音は異様なほど鮮明に響き渡った。