誰もいない選挙の投票箱

誰もいない選挙の投票箱 第6話「第5章:透明な住民たち」

午後二時。投票所にはほとんど人が来なくなった。「どうせ無効になる」「行くだけ無駄だ」という噂が、町長側の陣営によって意図的に流されているようだった。町は、静かな死を待つ病室のような空気に包まれていた。 遥は居ても立ってもいられず、再び外へ出た。今度はレンに言われた通り、さらに奥の山中にある「飯場」を目指した。そこは、地図にも載っていない、社会の縁にある場所だった。 そこには、町から見捨てられたような古いプレハブ小屋が、身を寄せ合うように並んでいた。かつては炭鉱の資材置き場だった場所だという。 「……あんた、また来たのか」 レンが、ドラム缶の焚き火のそばで、今度は大きな流木を削っていた。炎の光が

午後二時。投票所にはほとんど人が来なくなった。「どうせ無効になる」「行くだけ無駄だ」という噂が、町長側の陣営によって意図的に流されているようだった。町は、静かな死を待つ病室のような空気に包まれていた。
 遥は居ても立ってもいられず、再び外へ出た。今度はレンに言われた通り、さらに奥の山中にある「飯場」を目指した。そこは、地図にも載っていない、社会の縁にある場所だった。
 そこには、町から見捨てられたような古いプレハブ小屋が、身を寄せ合うように並んでいた。かつては炭鉱の資材置き場だった場所だという。
「……あんた、また来たのか」
 レンが、ドラム缶の焚き火のそばで、今度は大きな流木を削っていた。炎の光が、彼の険しい横顔を赤く染めている。
「お願い、レンさん。私に何ができるか教えて。このままじゃ、本当に誰もいない選挙になっちゃう。私の父も、何かに怯えていて……」
「何もしなくていいさ。この町はもう終わってる。システムが壊れたんじゃない、最初から壊すために作られたシステムなんだよ。あんたも早く逃げろ。若いんだから、もっとマシな場所があるだろ」
「逃げたくない! この町が好きとか、そんな綺麗な理由じゃないけど……でも、誰かが勝手に『いないこと』にするなんて、そんなの絶対におかしいよ! 私が今日やってる仕事は、人の名前を確認することなの。なのに、確認する相手を誰かが消しちゃうなんて、私の仕事まで嘘になっちゃうじゃない!」
 遥の叫びは、静まり返った飯場に響き渡った。その声に応えるように、プレハブの影から何人かの人々が、幽霊のように姿を現した。
 腰の曲がった老人が、杖をつきながら歩み寄ってきた。その後ろには、疲れた顔をした東南アジア系の女性や、幼い子供を抱きかかえた若い母親が続いている。
「お嬢ちゃん、あんた、役場の九条さんの娘だろ?」
 老人が、肺の奥から絞り出すような声で言った。
「わしらはな、三十年ここで働いてきた。炭鉱が閉まった後も、道路を直し、山を守り、この町を支えてきたつもりだ。わしには息子がいたが、十年前の土砂崩れで亡くなった。その時、町は『名誉ある死』だと言ってくれた。だが、今の町長になってから、わしらの住むこの一帯は『リゾート予定地』として地図から消された。住所も、戸籍も、何もかもが『無効』にされたんだ。郵便も届かん、選挙の案内も来ん。わしらは生きたまま、この町の記憶から消去されたんだよ」
 老人の隣に立つ女性が、拙い日本語で付け加えた。
「ワタシ、ここで子供産みました。でも、子供の証明書、出ない。町長さん、ワタシたちのこと『いない』って言う。でも、ここにいます。ご飯食べて、寝て、笑って、ここにいます。ワタシたち、幽霊じゃない」
 遥は、彼女たちの顔を一人ずつ見つめた。そこにあるのは、統計データや住民基本台帳には決して現れない、血の通った人間の営みだった。彼女たちが今日、一票を投じることができないのは、単なるシステムのエラーではない。彼女たちの存在そのものが、開発を急ぐ権力者にとって「不都合な真実」だからなのだ。
 遥は言葉を失った。システムから消された二千人の住民。それは、単なるデータのエラーではなく、彼らのような「都合の悪い存在」を社会的に抹殺するための手段だったのだ。
「レンさん、さっきの『足音』……あれは、あなたの仲間が投票したの?」
 レンはニヤリと笑った。
「ああ。婆さん――佐伯の婆さんが手引きしてくれたのさ。名簿になくても、紙の票は箱に入る。たとえ後で無効にされようと、俺たちがここにいたという証拠を残したかった。だが、紙だけじゃ足りない。あいつらは紙を燃やすことだってできる」
「無効になんかさせない」
 遥は力強く言った。
「古い機械……コトダマを使えば、彼らの声を記録できるんでしょ? デジタルじゃない、物理的に刻まれた、消せない記録として」
 レンは削っていた木片を置き、遥を凝視した。その瞳に、初めて微かな希望の光が宿った。
「……あれを動かすには、特別なパンチカードが必要だ。炭鉱の組合が隠し持っていたやつがな。それは、この町に住むすべての人間――名簿にある者も、ない者も――の『意志の指紋』を読み取るためのマスターキーだ。だが、それは今、役場の金庫の中だ。町長の息がかかった連中が監視している場所にな」
「私が取る。父の鍵を使えば入れるはず。父も、本当はこんなこと望んでいないはずだから」
 遥の言葉に、レンは目を見開いた。
「正気か? 捕まれば、あんたの人生は終わりだぞ。役場の裏切り者として扱われる」
「このまま黙っている方が、終わってる気がするから。私、自分の名前が消される前に、自分ができることをしたいの」
 遥は踵を返し、霧の中を走り出した。自分でも驚くほどの勇気が、体の底から湧き上がっていた。