誰もいない選挙の投票箱 第5話「第4章:封印された機械」
体育館に戻った遥は、壁際に置かれたあの大きな物体を凝視していた。布の隙間から、錆びついた鉄の肌が見える。それはまるで、長い眠りについている巨大な獣のようだった。 父の正和が、忙しそうに書類を運んでいる隙を見て、遥は佐伯節子に近づいた。 「委員長、お聞きしたいことがあります」 節子は、古い名簿をめくる手を止め、遥を見た。その瞳は、深い霧の奥にある灯火のように静かに燃えていた。 「あの布の中にあるのは、『コトダマ』という機械ですか?」 節子の表情が一瞬で強張った。 「……どこでその名を?」 「レンという人に聞きました。この町には、いないことにされている人がいて、その人たちの記録がそこにあるって。民
体育館に戻った遥は、壁際に置かれたあの大きな物体を凝視していた。布の隙間から、錆びついた鉄の肌が見える。それはまるで、長い眠りについている巨大な獣のようだった。
父の正和が、忙しそうに書類を運んでいる隙を見て、遥は佐伯節子に近づいた。
「委員長、お聞きしたいことがあります」
節子は、古い名簿をめくる手を止め、遥を見た。その瞳は、深い霧の奥にある灯火のように静かに燃えていた。
「あの布の中にあるのは、『コトダマ』という機械ですか?」
節子の表情が一瞬で強張った。
「……どこでその名を?」
「レンという人に聞きました。この町には、いないことにされている人がいて、その人たちの記録がそこにあるって。民主主義のシステムが壊れても、消えない意志があるって」
節子は深くため息をつき、遥を体育館の隅へと促した。
「それは、この町が炭鉱で栄えていた頃の遺物です。パンチカード式の古い投票機。かつての炭鉱労働者たちは、会社や国に声を無視されないよう、自分たちの意志を物理的に刻み込むための機械を独自に作ったのです。彼らは文字が書けない者も多かった。だから、自分たちの想いを穴として刻んだのです」
「物理的に刻む……?」
「ええ。今のデジタルのように、誰かが裏で書き換えることのできない、重みのある一票です。私たちはそれを『コトダマ(言霊)』と呼びました。言葉には魂が宿る。一度刻まれた意志は、決して消えないという意味です。それは、行政の帳簿よりもずっと深く、この土地の記憶に根ざしているのです」
節子の手は、震えながら布の端を握った。
「権藤町長は、この機械を廃棄しようとしました。しかし、私は選管の権限でそれを守り続けてきた。今日、名簿が消えたのは、おそらく偶然ではありません。彼らは、デジタルで町を支配しようとしているのです。人の名前を単なるビットに変えて、消去ボタン一つで無かったことにしようとしている」
その時、体育館の正面玄関が勢いよく開いた。
「技術者が到着しました! これよりシステムの復旧作業に入ります!」
入ってきたのは、黒いスーツを着た数人の男たちだった。胸には「フロンティア・テック」のバッジが光っている。彼らは手際よくタブレットを回収し、サーバーラックへと向かった。
リーダー格の男が、権藤町長と親しげに耳打ちしている。その光景は、まるで占領軍のようだった。
「九条さん」
男が父の正和を呼んだ。
「バックアップデータに破損が見つかりました。修復には数時間かかります。その間、現在までに手作業で受け付けた票は、整合性が取れないため『保留』扱いにします。法的根拠がない票は、箱に入っていてもゴミと同じですから」
「保留!? そんな、それでは今投票している人たちは……」
「あくまで暫定的な措置です。システムが正常な名簿を吐き出せば、それに照らし合わせるだけのことですよ。我々のシステムこそが『正解』なのですから」
男の言葉は丁寧だが、その目は冷徹だった。彼らは、自分たちが用意した「正しい名簿」以外を認めないつもりなのだ。その名簿には、反対派の住民の名前は一人も載っていないのだろう。