誰もいない選挙の投票箱 第4話「第3章:境界線の男」
レンという男が消えた霧の向こう側を、遥はしばらく見つめていた。彼の言葉が、冷たい雫のように心に染み込んでくる。「いないことにされている人間」。それは、システムから消去された住民たちのことだろうか。それとも、もっと別の……。 「遥! 勝手な真似をするなと言っただろう!」 父の正和が血相を変えて追いかけてきた。 「お父さん、今、誰かが投票したの。誰もいないのに」 「何を言っている。見間違いだろう。それより、中へ戻れ。町長がいらっしゃるんだ」 正和の言葉通り、体育館の前には黒塗りの高級車が止まっていた。中から降りてきたのは、現職町長の権藤守だ。彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、集まったわずかな住民たちに
レンという男が消えた霧の向こう側を、遥はしばらく見つめていた。彼の言葉が、冷たい雫のように心に染み込んでくる。「いないことにされている人間」。それは、システムから消去された住民たちのことだろうか。それとも、もっと別の……。
「遥! 勝手な真似をするなと言っただろう!」
父の正和が血相を変えて追いかけてきた。
「お父さん、今、誰かが投票したの。誰もいないのに」
「何を言っている。見間違いだろう。それより、中へ戻れ。町長がいらっしゃるんだ」
正和の言葉通り、体育館の前には黒塗りの高級車が止まっていた。中から降りてきたのは、現職町長の権藤守だ。彼は自信に満ちた笑みを浮かべ、集まったわずかな住民たちに手を振っている。
権藤は、奥深町を「新日本フロンティア」という企業に売却し、巨大なリゾート施設とデータセンターを誘致することを公約に掲げていた。それが過疎化を食い止める唯一の道だと彼は主張している。
「正和君、状況はどうだね?」
権藤が体育館に入り、父に声をかけた。
「はっ、システムに若干の不具合が出ておりますが、佐伯委員長の判断で手作業による投票を継続しております」
「手作業か……」
権藤の目が細められた。その視線は、遥が受付をしている名簿へと向けられた。
「時代時代遅れだな。そんな不確かな方法で、町の未来を決めていいものか。フロンティア・テックの技術者が間もなく到着する。それまで投票は一時停止すべきではないかね?」
「それはできません」
佐伯節子が割って入った。
「選挙は、決まった時間に始まり、決まった時間に終わるものです。機械の都合で止めることは許されません」
二人の間に、火花が散るような緊張感が走った。権藤は鼻で笑い、遥の方をちらりと見た。
「九条君の娘さんか。君も、こんな古臭い町に縛られるのは嫌だろう? 新しい時代には、新しいルールが必要なんだよ」
権藤が去った後、遥はたまらなくなって外へ出た。昼食の休憩時間を利用して、レンが向かったと思われる方向――町の北側にある、かつての炭鉱住宅跡へと向かった。
そこは、町役場がある中心部とは対照的に、崩れかけた家屋が立ち並ぶ荒廃したエリアだった。だが、そこには確かに「生活」があった。軒先には洗濯物が干され、小さな畑が耕されている。
「……あんた、また来たのか」
古びたアパートの階段に腰掛けていたレンが、呆れたように言った。手元では、ナイフで木片を器用に削っている。その動きには、迷いがなかった。
「教えてほしいの。さっき言った『いないことにされている人間』って、どういう意味?」
遥は階段の下から彼を見上げた。レンは煙草をくゆらせ、紫煙の向こう側にある遠い山並みを見つめた。
「この町にはな、住民票を持たずに働いている奴が大勢いるんだよ。リゾート建設の下準備で呼ばれた季節労働者、不法滞在スレスレの外国人、それに……借金から逃げてきた奴らだ。俺もその一人さ」
レンは自嘲気味に笑い、タトゥーの刻まれた首筋をさすった。
「俺たちは、行政の帳簿には載らない。病気になっても病院には行けず、犯罪に巻き込まれても警察には頼れない。だが、この町を支えているインフラの半分は、俺たちの労働力で作られている。皮肉なもんだろ? 町を存続させるために必要な人間が、町を存続させるための議論からは除外されているんだ」
遥は言葉に詰まった。学校の社会科の授業で習う「民主主義」や「基本的人権」という言葉が、この場所では全く意味をなしていないことを突きつけられた気分だった。
「町長は、俺たちを『透明な労働力』として使っている。だが、選挙となれば話は別だ。俺たちに票はない。それどころか、邪魔な住民はシステムから消して、代わりに自分たちの都合のいい奴だけを『新住民』として登録する。それが、あのフロンティア・テックのシステムの正体だよ」
レンは削っていた木片を遥に放り投げた。受け取ると、それは小さな鳥の形をしていた。
「それは、かつての炭鉱夫たちが守り神として彫っていたものだ。彼らもまた、会社という巨大なシステムの中で、一人の人間として扱われるために戦った。あんたたちの知らない歴史が、この土の下には埋まっているんだよ」
遥は、その木彫りの鳥の重みを感じながら、体育館へと戻った。