誰もいない選挙の投票箱 第3話「第2章:無人の足音」
「名簿がないなら、選挙は中止ですか?」 遥の問いに、正和は答えられなかった。法的には、有権者名簿が確認できない状態での投票は無効になる可能性が高い。 だが、佐伯節子は首を振った。 「いいえ、続けます。紙の予備名簿があるはずです。それを使って、手作業で確認しなさい」 「しかし、それでは時間がかかりすぎます。町長からも、システムが復旧するまで待機しろと指示が……」 「町長はこの選挙の当事者です。選管の判断に口を出す権利はありません」 節子の強気な姿勢に押され、事務作業は手作業へと切り替わった。しかし、住民たちの怒りは収まらない。システムが壊れているという噂は瞬く間に広まり、投票所に来る足は目に見え
「名簿がないなら、選挙は中止ですか?」
遥の問いに、正和は答えられなかった。法的には、有権者名簿が確認できない状態での投票は無効になる可能性が高い。
だが、佐伯節子は首を振った。
「いいえ、続けます。紙の予備名簿があるはずです。それを使って、手作業で確認しなさい」
「しかし、それでは時間がかかりすぎます。町長からも、システムが復旧するまで待機しろと指示が……」
「町長はこの選挙の当事者です。選管の判断に口を出す権利はありません」
節子の強気な姿勢に押され、事務作業は手作業へと切り替わった。しかし、住民たちの怒りは収まらない。システムが壊れているという噂は瞬く間に広まり、投票所に来る足は目に見えて減っていった。
午前十時。体育館の中は、奇妙な静寂に包まれていた。受付には誰もいない。職員たちも、手持ち無沙汰に時計を眺めている。
遥は、投票箱の横に立って監視を続けていた。ふと、背後の搬入口の方から、ペタッ、ペタッという湿った音が聞こえた。
雨は降っていない。だが、その音は間違いなく、濡れた長靴で床を歩く足音だった。
遥は振り返ったが、そこには誰もいなかった。搬入口の扉は閉まったままだ。
「気のせい……?」
そう思った瞬間、遥の目の前で信じられないことが起きた。
誰もいないはずの投票台から、一枚の投票用紙がふわりと浮き上がり、そのまま吸い込まれるように投票箱のスリットへと落ちていったのだ。
カサリ、という小さな音。
遥は息を呑んだ。今、確かに誰かが投票した。だが、そこには誰もいなかった。
「今……誰か、入れた?」
近くの職員に声をかけたが、彼はスマホをいじっていて見ていなかったという。遥は恐る恐る投票箱に近づき、中を覗き込んだ。
透明なアクリル板越しに見える箱の底には、先ほどまではなかったはずの、四つ折りにされた投票用紙が一枚、寂しげに転がっていた。
遥は周囲を見渡した。体育館の隅、古い布を被せられたあの大きな物体の陰に、誰かの人影が見えた気がした。
「待ってください!」
遥は衝動的に駆け出した。職員たちの制止の声を背に、体育館の裏口へと飛び出す。
そこには、深い霧が立ち込めていた。視界は数メートル先も見えない。
「誰かいるんですか?」
返事はない。だが、霧の向こうから、低い男の声が聞こえてきた。
「……無駄だよ。あんな箱に何を入れたって、この町じゃ『いないこと』にされるんだ」
霧の中から現れたのは、泥のついた作業着を着た若い男だった。首元には、見たこともない紋章のタトゥーが刻まれている。
「あなたは……」
「レンだ。この町で、あんたたちが一番見たくないものを見せてやるよ」
男はそう言い残すと、再び霧の中へと消えていった。遥はその場に立ち尽くした。心臓の鼓動が、耳元でうるさいほどに鳴っていた。