誰もいない選挙の投票箱 第2話「第1章:消えた有権者」
最初の投票者が現れたのは、開始から十分ほど経った頃だった。近所に住む農業の田中さんだ。彼は腰を曲げながら、受付の遥の前に診察券のような有権者入場券を差し出した。 「おはよう、遥ちゃん。今日は大変だねえ」 「おはようございます、田中さん。確認しますね」 遥は手元のタブレット端末を操作し、田中さんの入場券にあるバーコードを読み取った。通常であれば、ここに田中さんの氏名と住所が表示され、「受付完了」のボタンを押すだけで済むはずだった。 しかし、画面に現れたのは、予想だにしない文字だった。 『該当者なし:転出済み』 「えっ……?」 遥は指を止め、もう一度読み取り直した。結果は同じだった。 「どうしたん
最初の投票者が現れたのは、開始から十分ほど経った頃だった。近所に住む農業の田中さんだ。彼は腰を曲げながら、受付の遥の前に診察券のような有権者入場券を差し出した。
「おはよう、遥ちゃん。今日は大変だねえ」
「おはようございます、田中さん。確認しますね」
遥は手元のタブレット端末を操作し、田中さんの入場券にあるバーコードを読み取った。通常であれば、ここに田中さんの氏名と住所が表示され、「受付完了」のボタンを押すだけで済むはずだった。
しかし、画面に現れたのは、予想だにしない文字だった。
『該当者なし:転出済み』
「えっ……?」
遥は指を止め、もう一度読み取り直した。結果は同じだった。
「どうしたんだい?」
「すみません、ちょっとお待ちください。お父さん!」
遥は近くにいた父を呼んだ。正和は端末の画面を見るなり、顔をさらに青くした。
「田中さん、最近どこかへ引っ越しの手続きをされましたか?」
「バカなことを言うな。わしはこの町で生まれて八十年、一歩も外へ出たことはないぞ」
正和は他の端末でも確認したが、結果はすべて同じだった。それどころか、次に並んでいた住民も、その次の住民も、システム上ではすべて「転出済み」と表示されていた。
「どういうことだ……。名簿が、空っぽじゃないか」
正和の呟きに、遥は背筋が凍るのを感じた。奥深町の有権者数は約二千人。その全員が、一晩のうちにシステムから消去されている。
「フロンティア・テックのシステムがバグったのか?」
職員の一人が声を上げた。フロンティア・テックは、今回の選挙から導入された新しい投票管理システムを提供している会社だ。町長と親密な関係にあると言われている企業の子会社でもある。
「バグじゃない」
凛とした声が響いた。選管委員長の佐伯節子が、静かに歩み寄ってきた。彼女の背筋は、齢八十を超えているとは思えないほど真っ直ぐに伸びている。
「これは、単なるシステムの故障ではありません。意図的な消去です。この町から『人』を消し、その声を無効化しようとしている者がいる」
「そんな、委員長。誰がそんな恐ろしいことを……」
正和が狼狽し、額に脂汗を浮かべながら端末を叩き続ける。だが、何度リセットしても、画面には『該当者なし』の無機質な文字が踊るだけだった。
その頃、体育館の外では、異変を聞きつけた住民たちが集まり始めていた。朝一番で駆けつけた老人たちが、受付の混乱を見て声を荒らげている。
「どういうことだ! わしは五十年、この町の税金を払ってきたんだぞ!」
「名簿にないなんて、そんなバカな話があるか!」
怒号は次第に大きくなり、体育館の冷たい空気を震わせた。「投票させろ」「俺たちは幽霊じゃない」という叫びが、朝霧の中に溶けていく。その光景は、まるで忘れ去られた人々が自分たちの存在を証明しようともがいているかのようだった。
遥は、タブレットの右下で青く点滅するフロンティア・テックのロゴを見つめていた。最新鋭のセキュリティと利便性を謳ったそのシステムが、今や住民たちを排除するための冷徹な門番と化している。そのロゴが、霧の向こう側でほくそ笑む誰かの口元のように見えて、遥は激しい寒気を感じた。これは単なる選挙じゃない。この町で生きる人々の「存在証明」を巡る戦いなのだと、彼女は直感していた。