誰もいない選挙の投票箱 第1話「プロローグ:最後の投票日」
朝六時。奥深町の空気は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭い冷気を帯びていた。標高八百メートルを超えるこの山あいの集落では、八月の終わりといえども、夜明け前の静寂は冬のような厳しさを持っている。 九条遥は、吐き出す息の白さに目を細めながら、中学校の体育館の重い扉を開けた。ギギッという錆びついた音が、眠りから覚めきらない町に不自然に響く。その音は、まるで古い歴史が軋みを上げているかのようだった。 「おはようございます」 声をかけたが、返ってきたのは自分の声の残響だけだった。高い天井に吸い込まれていく自分の声が、妙に心細い。すでに到着して準備を始めているはずの父――役場職員の九条正和の姿がない。 体育
朝六時。奥深町の空気は、肺の奥まで凍りつかせるような鋭い冷気を帯びていた。標高八百メートルを超えるこの山あいの集落では、八月の終わりといえども、夜明け前の静寂は冬のような厳しさを持っている。
九条遥は、吐き出す息の白さに目を細めながら、中学校の体育館の重い扉を開けた。ギギッという錆びついた音が、眠りから覚めきらない町に不自然に響く。その音は、まるで古い歴史が軋みを上げているかのようだった。
「おはようございます」
声をかけたが、返ってきたのは自分の声の残響だけだった。高い天井に吸い込まれていく自分の声が、妙に心細い。すでに到着して準備を始めているはずの父――役場職員の九条正和の姿がない。
体育館の床には、昨日苦労して並べたパイプ椅子が整然と並んでいる。会場の中央には、二つのアルミニウム製の投票箱が、まるで古代の祭壇に置かれた供え物のように鎮座していた。その無機質な輝きが、これから始まる「町の審判」の重みを物語っている。
遥は父に頼まれて、今日の選挙事務のアルバイトを引き受けた。地元の高校生が手伝うことで、少しでも「若者の政治参加」や「開かれた行政」をアピールしたいという町長側の思惑があることは分かっていた。だが、遥にとっての動機はもっと切実で、そして冷めたものだった。この町から出るための学費を、少しでも稼いでおきたかったのだ。
奥深町は、あと数年で隣の市に吸収合併されるか、あるいは大手リゾート企業に町ごと買い取られるかの瀬戸際にあった。かつて炭鉱で栄えた栄華は今や影も形もなく、残されたのは高齢者と、崩れかけた廃屋、そして行き場のない焦燥感だけだ。同級生たちは皆、卒業と同時にこの「沈みゆく船」から逃げ出す準備をしている。遥もまた、その一人だった。この町に未来があるとは思えなかったし、自分の人生をこの閉ざされた谷底で終わらせるつもりもなかった。
だが、その冷めた決意の裏側で、遥の胸には説明のつかない不安が渦巻いていた。あの日、町長が「町を救うための英断」と称して発表したリゾート売却計画。それが本当に町を救うのか、それとも単に歴史に幕を引くための口実なのか。高校生の彼女には判断がつかなかった。ただ、今日の投票箱が、その答えを冷酷に導き出すことだけは分かっていた。
「遥、早かったな」
背後から声がした。父の正和だ。その顔は、連日の残業のせいか、あるいは何か別の重圧のせいか、ひどく土気色をしていた。
「お父さん、顔色が悪いよ。大丈夫?」
「ああ、システムの設定で少し手間取ってね。……いいか、遥。今日は何があっても、選管委員長の佐伯さんの指示に従うんだ。いいな?」
父の言葉には、いつになく切迫した響きがあった。遥が頷く間もなく、役場の職員たちが次々と現れ、会場は慌ただしい準備に包まれた。
午前六時五十分。選管委員長の佐伯節子が、背筋をピンと伸ばして壇上に立った。彼女はこの町で最も古い家系の一つである佐伯家の当主であり、町の生き字引のような存在だ。
「皆さん、今日は奥深町の未来を決める大切な日です。一票の重みを噛み締め、厳正に執務にあたってください」
節子の声は、体育館の冷たい空気を切り裂くように響いた。遥は、その視線が投票箱ではなく、壁際に置かれた古びた布を被せられた大きな物体に向けられていることに気づいた。
午前七時。投票開始を告げるチャイムが鳴った。奥深町の「最後になるかもしれない」選挙が始まった。