誰もいない選挙の投票箱

誰もいない選挙の投票箱 第12話「第11章:最後の一票」

集計がほぼ終わろうとしていた時、佐伯節子が手を止めた。 「……最後の一票です」 彼女が取り出したのは、投票箱の底に張り付くように残っていた、泥と汗で汚れた一枚の用紙だった。 それは、遥が体育館の裏口で見た、レンが投じたあの票だった。 会場の全視線がレンに集まる。彼は相変わらず腕を組み、壁に寄りかかったまま、どこか遠くを見るような目をしていた。 「この票には、名前が書かれていません」 権藤町長が、最後の悪あがきのように、掠れた声で叫んだ。 「無効票だ! 名前のない票はゴミだ! カウントされるはずがない!」 しかし、節子は静かに首を振った。 「いいえ。名前の代わりに、指紋と……そして炭鉱の紋章が刻

集計がほぼ終わろうとしていた時、佐伯節子が手を止めた。
「……最後の一票です」
 彼女が取り出したのは、投票箱の底に張り付くように残っていた、泥と汗で汚れた一枚の用紙だった。
 それは、遥が体育館の裏口で見た、レンが投じたあの票だった。
 会場の全視線がレンに集まる。彼は相変わらず腕を組み、壁に寄りかかったまま、どこか遠くを見るような目をしていた。
「この票には、名前が書かれていません」
 権藤町長が、最後の悪あがきのように、掠れた声で叫んだ。
「無効票だ! 名前のない票はゴミだ! カウントされるはずがない!」
 しかし、節子は静かに首を振った。
「いいえ。名前の代わりに、指紋と……そして炭鉱の紋章が刻印されています。これは、かつての労働組合が、文字を書けない仲間のために認めていた『身分なき者の署名』です。コトダマがこの票を認識したということは、この土地が彼を住民として認めたということです」
 節子は遥に用紙を差し出した。
「遥さん、これを読み上げなさい。あなたがこの票が箱に入るのを見届けた、唯一の証人ですから」
 遥は震える手で、その重みのある用紙を受け取った。そこには、文字の代わりに、力強く押し付けられた泥の跡があった。それは、どんな綺麗なサインよりも美しく見えた。
 そして、裏面には小さな、しかし鋭い文字でこう書かれていた。
『俺たちは、ここにいる』
 遥はその言葉を、喉の奥から絞り出すように、しかし体育館の隅々にまで届くように読み上げた。
「……俺たちは、ここにいる!」
 その瞬間、コトダマが最後の一際大きな、太陽のような光を放ち、そして満足したかのように静かに停止した。
 体育館を包んでいた幻想的な光はゆっくりと消え、代わりに窓の外からは、夜明けの冷たくも清々しい光が差し込み始めていた。
「有効票として認めます」
 節子の声が、朝の静寂に凛と響いた。
「これをもって、奥深町町長選挙の開票を終了します。……リゾート売却反対派、当選。奥深町は、私たちの手の中に残りました」
 歓声は上がらなかった。ただ、深い、深い安堵の溜息と、誰かのすすり泣く声が、会場を静かに満たした。