誰もいない選挙の投票箱

誰もいない選挙の投票箱 第11話「第10章:一票の重み」

午後八時。本来の投票終了時刻が過ぎた。 体育館の入り口には、光に導かれるようにして、多くの住民が集まっていた。名簿から消された者も、消されなかった者も、皆が同じ光の下で立ち尽くし、互いの顔を見つめ合っていた。 「……開票を続行します」 佐伯節子が、静かだが力強い声で宣言した。 「システムは機能していませんが、私たちにはこの『コトダマ』の記録と、そして皆さんの目の前にある投票箱があります。これこそが、偽らざる民意です」 職員たちが、慎重に投票箱の封印を解いた。権藤側の職員たちは、もはや抵抗する気力もなく、ただ呆然と見守るしかなかった。 箱の中から溢れ出したのは、紙の束だった。そこには、遥が目撃し

午後八時。本来の投票終了時刻が過ぎた。
 体育館の入り口には、光に導かれるようにして、多くの住民が集まっていた。名簿から消された者も、消されなかった者も、皆が同じ光の下で立ち尽くし、互いの顔を見つめ合っていた。
「……開票を続行します」
 佐伯節子が、静かだが力強い声で宣言した。
「システムは機能していませんが、私たちにはこの『コトダマ』の記録と、そして皆さんの目の前にある投票箱があります。これこそが、偽らざる民意です」
 職員たちが、慎重に投票箱の封印を解いた。権藤側の職員たちは、もはや抵抗する気力もなく、ただ呆然と見守るしかなかった。
 箱の中から溢れ出したのは、紙の束だった。そこには、遥が目撃した、あの「幽霊の票」も混じっていた。それは幽霊の票などではなかった。見えないことにされていた人々が、決死の思いで投じた、血の通った票だったのだ。
 一枚一枚、丁寧に広げられていく。
 そこには、震える字で書かれた候補者の名前や、「この町を残してほしい」「孫にこの景色を見せたい」といった、切実な願いが綴られていた。
 遥は、自分の手が激しく震えていることに気づいた。今まで、一票なんて単なる紙切れだと思っていた。自分が投じても投じなくても、世界は何も変わらない、大きな力に押し流されるだけだと。
 だが、今目の前にあるのは、一人の人間がその場所に存在し、何かを願ったという唯一無二の証拠だ。それは、どんなスーパーコンピューターでも代替できない、人間の尊厳そのものだった。
「遥」
 聞き慣れた声に振り返ると、そこには警察官に付き添われた父の姿があった。彼は任意同行を求められているようだったが、その表情は、ここ数年で見たことがないほど晴れやかだった。
「お父さん……」
「ごめんな、遥。かっこいい父親じゃなくて。……でも、お前のおかげで、最後に自分の意志を通すことができた。名簿から名前を消されても、心まで消されることはなかったよ」
 正和は遥の頭を一度だけ、慈しむように撫で、静かに体育館を後にした。遥は涙を堪え、再び開票作業に目を向けた。
 作業は深夜まで及んだ。デジタルなら一瞬で終わる計算を、人々は手作業で、一枚一枚の筆跡を確認し合いながら進めていった。それは、効率を捨てて、一人ひとりの存在を認め合うための、神聖な儀式のような時間だった。