記憶を売らない写真館

記憶を売らない写真館 第9話「第8章:15年前の再開発」

写真館に戻った伊織は、祖父がかつて使っていた、真空管を用いた古い音響機材を引っ張り出した。デジタルのフィルターを通さない、生の音を増幅するための装置だ。 母のデータの波形をアナログ信号に変換し、巨大なスピーカーから流す。同時に、暗室の現像トレイに「無音の写真」を浸し、微弱な電流を流しながら、その表面に伊織が触れる。デジタルとアナログ、過去と現在を交差させる、狂気じみた試みだ。 スピーカーから、最初は耳を刺すような砂嵐のノイズが流れた。しかし、伊織が写真の中の母の瞳に指を重ね、自分の意識を極限まで集中させた瞬間、ノイズが急激に収束し、一つの形を成した。 ――ガガッ、コン、コン、コン……。 あの音

写真館に戻った伊織は、祖父がかつて使っていた、真空管を用いた古い音響機材を引っ張り出した。デジタルのフィルターを通さない、生の音を増幅するための装置だ。
 母のデータの波形をアナログ信号に変換し、巨大なスピーカーから流す。同時に、暗室の現像トレイに「無音の写真」を浸し、微弱な電流を流しながら、その表面に伊織が触れる。デジタルとアナログ、過去と現在を交差させる、狂気じみた試みだ。
 スピーカーから、最初は耳を刺すような砂嵐のノイズが流れた。しかし、伊織が写真の中の母の瞳に指を重ね、自分の意識を極限まで集中させた瞬間、ノイズが急激に収束し、一つの形を成した。
 ――ガガッ、コン、コン、コン……。
 あの音だ。辰巳爺の写真から聞こえた、地下の打撃音。しかし、今回はその音がより鮮明で、より近くに感じられた。
 ――「これでいいのね? 私が被験体になれば、この街の地下にある『核』は封印される。再開発は物理的に不可能になる」
 母の声だ。若く、凛とした、伊織の記憶の中にあるよりもずっと強く、慈愛に満ちた声。
 ――「ああ。だが葵、君の記憶は代償としてすべて失われる。伊織くんのことも、自分の名前さえも、君の脳からは消えてしまうんだ。それでもいいのか?」
 答えているのは、聞き覚えのある、しかし今よりもずっと力強い男性の声だった。伊織は息を呑んだ。それは、15年前の、まだ現役で時計店を切り盛りしていた頃の辰巳爺の声だった。
 録音された過去の会話が、写真の「音」と同期して、暗室の中に溢れ出した。
 15年前、花びら商店街は一度目の大規模な再開発の危機に瀕していた。当時の巨大デベロッパーは、商店街の地下にある広大な天然の空洞を利用して、国家規模のデータセンターを建設しようとしていた。しかし、その空洞には、江戸時代から続くこの街の歴史と、そこに住む人々の想いが染み付いた「土地の記憶」とも呼ぶべき未知のエネルギーが渦巻いていた。
 母・葵は、そのエネルギーを鎮め、開発を物理的に不可能にするための「人柱」として、自らの特殊能力――伊織と同じ、あるいはそれ以上の精度を持った「聴憶」の力を使い、自分の全記憶を地下施設のシステムに固定したのだ。
 辰巳爺はその唯一の協力者であり、同時に、葵を犠牲にして街を守ったことへの深い罪悪感を、15年間抱え続けてきたのだ。
「……そうだったのか、辰巳さん。あんたは、母さんと一緒に戦っていたんだな」
 伊織は震える手で機材を止めた。暗室の中に、静寂が戻る。
 母は自分を捨てたのではなかった。この街を、そして伊織がいつかこの街で生きていける未来を守るために、自らの存在を「音」として地下に埋めたのだ。そして今、メモリーリンク社はその封印を「合理的な再開発」という美名の下に叩き壊し、地下に眠る母の魂とも呼ぶべきエネルギーを、富裕層向けの『デジタル・ヘヴン』の動力源として強奪しようとしている。
 伊織は、拳を強く握りしめた。母が守ったものを、今度は自分が守る番だ。