記憶を売らない写真館 第8話「第7章:無音の叫び」
伊織の視界が、真っ白なノイズで埋め尽くされた。 指先から伝わってくるのは、情報の奔流ではない。それは、光さえも届かない、底なしの深い闇だった。メモリーリンク社のサーバーに保存された母のデータは、玲奈が言った通り、何一つとして意味を成さない「ゴミ」の集積に見えた。 しかし、伊織の「聴憶」は、その闇の奥底で、かすかな、本当に微かな震えを捉えていた。 ――……けて……。 ――……伊織……逃げて……。 それは声というよりも、祈りに近い微弱な振動だった。デジタル化され、細分化され、意味を剥ぎ取られた情報の残骸の中で、母の意志だけが、消えずに踏みとどまっていた。彼女は自分の記憶を消されたのではなく、何かに
伊織の視界が、真っ白なノイズで埋め尽くされた。
指先から伝わってくるのは、情報の奔流ではない。それは、光さえも届かない、底なしの深い闇だった。メモリーリンク社のサーバーに保存された母のデータは、玲奈が言った通り、何一つとして意味を成さない「ゴミ」の集積に見えた。
しかし、伊織の「聴憶」は、その闇の奥底で、かすかな、本当に微かな震えを捉えていた。
――……けて……。
――……伊織……逃げて……。
それは声というよりも、祈りに近い微弱な振動だった。デジタル化され、細分化され、意味を剥ぎ取られた情報の残骸の中で、母の意志だけが、消えずに踏みとどまっていた。彼女は自分の記憶を消されたのではなく、何かに「変換」して隠したのだ。
「伊織さん! 離して、脳が焼き切れるわよ!」
玲奈の悲鳴のような叫び声が、遠くで聞こえた。彼女が無理やり伊織の手を操作パネルから引き剥がすと、伊織は糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
全身が冷たい汗で濡れ、呼吸は荒く、視界はまだ定まらない。しかし、その瞳には、絶望ではなく確信の光が宿っていた。
「……分かったよ。母さんが、あの写真に何を隠したのか」
「何を言っているの? あのデータは完全に壊れているのよ。どんな最新のAIを使っても、修復は不可能だと結論が出ているわ」
「AIには聞こえないんだよ。母さんは、自分の記憶を『音』の中に……それも、デジタルデータには記録されない、空気の物理的な振動の中に隠したんだ。あの『無音の写真』は、欠陥品じゃない。特定の周波数の音を重ねた時にだけ解読できる、世界で唯一の『鍵』なんだ」
伊織は立ち上がり、玲奈の驚愕を無視して、彼女の端末から母のデータの断片を自分のスマートフォンへと強引に転送した。
「玲奈、あんたが言った通りだ。デジタルには音が欠けている。でもそれは技術の不足じゃない。音が、記憶の『魂』そのものだからだ。あんたたちの機械じゃ、魂は救えないし、盗めもしない」
伊織は、玲奈の制止を振り切ってオフィスを飛び出した。背後でサーバーの冷却ファンが、断末魔のような異音を立てて回っている。彼は夜の商店街を、自分の店へとひた走った。母が残したあの「無音の写真」と、今手に入れた「データの鍵」を合わせれば、15年前の真実が、そしてこの街を襲っている危機の正体が明らかになるはずだ。