記憶を売らない写真館 第10話「第9章:写真館の包囲網」
夜が明け、花びら商店街に朝靄が立ち込める頃、事態は決定的な局面を迎えた。 アーケードの入り口には、メモリーリンク社が手配した大型の重機や解体用の車両が、轟音を立てて集結していた。彼らの目的は、もはや丁寧な立ち退き交渉ではない。地下施設への唯一のアクセスポイントである「坂上写真館」の物理的な排除――強制解体だ。 「伊織くん、逃げなさい! ここはもう、個人の力でどうにかなる状況じゃない!」 辰巳爺が、息を切らして店に駆け込んできた。彼の背後には、記憶を売って生気を失っていたはずの住人たちが、何かに導かれるように、あるいは魂の深い場所で鳴り響く警鐘に応えるように、ぞろぞろと集まってきていた。 「逃げ
夜が明け、花びら商店街に朝靄が立ち込める頃、事態は決定的な局面を迎えた。
アーケードの入り口には、メモリーリンク社が手配した大型の重機や解体用の車両が、轟音を立てて集結していた。彼らの目的は、もはや丁寧な立ち退き交渉ではない。地下施設への唯一のアクセスポイントである「坂上写真館」の物理的な排除――強制解体だ。
「伊織くん、逃げなさい! ここはもう、個人の力でどうにかなる状況じゃない!」
辰巳爺が、息を切らして店に駆け込んできた。彼の背後には、記憶を売って生気を失っていたはずの住人たちが、何かに導かれるように、あるいは魂の深い場所で鳴り響く警鐘に応えるように、ぞろぞろと集まってきていた。
「逃げないよ、辰巳さん。全部知ったんだ。15年前に母さんが何をしたのか、あんたが何を守ろうとしてきたのかも」
辰巳は目を見開き、杖を持つ手が激しく震えた。その皺の刻まれた顔に、堪えきれない涙が伝う。
「……すまない。わしは、葵さんとの約束を守れなかった。君を巻き込まず、この街の秘密を墓まで持っていくはずだったんだ。だが、わしの弱さが、メモリーリンクの付け入る隙を与えてしまった」
「謝るのは後にしてくれ。それより、外を見て」
伊織が指差した先では、信じられない光景が広がっていた。記憶を失い、自分の名前さえ曖昧になっていたはずの住人たちが、重機の前に立ち塞がり、無言の壁を作っていたのだ。彼らは言葉にはできなくても、この土地が発する「音」を、その肉体が覚えているようだった。
そこへ、玲奈が足早にやってきた。彼女の顔は幽霊のように蒼白で、手には会社からの解雇通知と、地下施設起動の最終命令書が握られていた。
「伊織、止めて。会社は本気よ。彼らは地下のエネルギーを無理やり引き出して、メインサーバーに直結させるつもりだわ。そんなことをすれば、過負荷でこの商店街どころか、街全体の記憶ネットワークが崩壊して、人々の精神が焼き切れてしまう!」
「玲奈、あんたはどうするんだ? まだ『合理的』な未来を信じているのか?」
玲奈は自分の胸元の、空っぽのロケットペンダントを強く握りしめた。
「……このペンダント、中身は空っぽだって言ったわね。でも本当は、一枚の写真が入っていたの。私が五歳の時に、両親と旅行先で撮った、世界で唯一の家族写真。それを、私は自分でメモリーリンクに売ったのよ。両親を事故で亡くした、あの地獄のような痛みを消したくて。でも……」
彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
「消えなかった。写真はなくなっても、記憶が薄れても、胸の奥がずっと、焼けるように痛いの。音が聞こえないのに、何かがずっと叫んでいるような気がして……。私は、自分の間違いを証明するために、この会社に入ったのかもしれない。この痛みの正体を知りたくて」
玲奈は震える手でペンダントを外し、伊織の掌に置いた。
「これに触れて。私の、本当の音を聞かせて。もし私にまだ『魂』が残っているなら、それを教えて」
伊織は深く頷き、空っぽの銀のロケットに、祈るように指を置いた。
聞こえてきたのは、悲鳴でも、後悔の叫びでもなかった。それは、幼い玲奈をあやす両親の、穏やかで優しい子守唄だった。
「……聞こえるよ、玲奈。あんたは、これ以上ないくらい愛されていた。その音は、どんな最新の機械でも、どんな冷徹なアルゴリズムでも、決して消し去ることはできないんだ」
玲奈は子供のように声を上げて泣き崩れた。その瞬間、重機のエンジン音が一段と激しく鳴り響き、写真館の壁が、巨大な鉄球によって大きな音を立てて崩れ始めた。