記憶を売らない写真館 第7話「第6章:デジタル・ヘヴンの正体」
深夜二時。商店街のアーケードは、死に絶えた巨大な生物の体内のように静まり返っていた。伊織は、数日前に玲奈がタブレットを操作する際に盗み見ていたパスコードを思い出し、メモリーリンク社の仮設オフィスの電子ロックを解除した。 中に入ると、そこには昼間の清潔で未来的な雰囲気とは一変した、異様な光景が広がっていた。壁一面に並んだサーバーユニットが、不気味な青い光を放ちながら、低い駆動音を立てている。その音は、まるで無数の人間の囁き声が重なり合ったような、生理的な嫌悪感を催させるものだった。 「勝手に入るなんて、感心しませんね。それとも、ようやく私の提案に乗る気になりましたか?」 闇の中から、涼やかな声が
深夜二時。商店街のアーケードは、死に絶えた巨大な生物の体内のように静まり返っていた。伊織は、数日前に玲奈がタブレットを操作する際に盗み見ていたパスコードを思い出し、メモリーリンク社の仮設オフィスの電子ロックを解除した。
中に入ると、そこには昼間の清潔で未来的な雰囲気とは一変した、異様な光景が広がっていた。壁一面に並んだサーバーユニットが、不気味な青い光を放ちながら、低い駆動音を立てている。その音は、まるで無数の人間の囁き声が重なり合ったような、生理的な嫌悪感を催させるものだった。
「勝手に入るなんて、感心しませんね。それとも、ようやく私の提案に乗る気になりましたか?」
闇の中から、涼やかな声が響いた。玲奈だった。彼女は部屋の隅にある椅子に深く腰掛け、暗闇の中で伊織が来るのを予見していたかのように待ち構えていた。
「……玲奈。あんたたちは、ここで本当は何を企んでいる。記憶を売って幸せになるなんて、真っ赤な嘘だ」
「企む? 人聞きが悪いですね。私たちは救済しているんですよ。見てください、これが私たちの目指す『究極の未来』です」
彼女が手元の端末を操作すると、部屋の中央に巨大なホログラムが浮かび上がった。それは、抽出された無数の人々の記憶が織りなす、完璧な仮想世界――『デジタル・ヘヴン』だった。
そこでは、永遠に沈まない夕陽が街を照らし、誰もが若く、美しく、満たされていた。失恋の痛みも、老いの恐怖も、死別の苦しみも、すべてがアルゴリズムによって排除されている。富裕層はこの完璧な楽園で余生を過ごす権利を得るために、莫大な資産を投じる。そして商店街の住人たちは、その楽園を構築するための「良質な素材」を提供しているに過ぎないのだという。
「ここでは誰も悲しまない。誰も傷つかない。これが、人類が到達すべき最後の幸福の形です。でも、一つだけ問題が発生しているんです。どれだけ映像を完璧にしても、被験者たちは『何かが足りない』と訴え続ける。リアリティが欠けている、心が震えないと。その欠けている最後のピースが、あなたの言う『音』なのではないかと、私は考えています」
玲奈は立ち上がり、ゆっくりと伊織に近づいた。その瞳には、狂気にも似た情熱が宿っていた。
「伊織さん。あなたの『聴憶』の能力を貸してください。写真から聞こえるあの『音』の成分を抽出・データ化して、この仮想世界に組み込むことができれば、私たちは本物の神になれる。過去を克服し、純粋な幸福だけを抽出できるんです」
「断る。そんな偽物の天国のために、母さんの記憶を使ったのか? 母さんは、あんたたちの実験台にされたのか!」
伊織の激昂に、玲奈の表情がわずかに、しかし明確に揺れた。
「……あなたの母親、坂上葵さんは、自ら志願したんですよ。15年前、この街の再開発を阻止するための莫大な資金を得るために、当時のプロジェクトの被験体になった。でも、実験は失敗した。彼女の記憶は、抽出の過程で修復不可能なほどに破損し、彼女自身の精神も崩壊した」
玲奈は一つのデータフォルダを開いた。そこには「AOI_S / PROJECT_SOUND_LESS」というラベルが貼られていた。
「これが、お母様の残骸です。音も、映像も、意味のある情報は何も残っていない。ただの『無』のデータ……真空の集積です。私たちはこれを、15年間解析し続けてきましたが、何も得られなかった」
伊織は、吸い寄せられるように画面へと手を伸ばした。冷たいモニター越しに、その「無」のデータに指を触れる。
瞬間、伊織の脳内に、これまでに経験したことのないほどの激痛が走った。それは「音」というよりも、世界が崩壊する際の断末魔のような、巨大な衝撃だった。