記憶を売らない写真館

記憶を売らない写真館 第6話「第5章:消えゆく言葉」

商店街の状況は、伊織の懸念を遥かに超えるスピードで悪化していった。 メモリーリンク社の「記憶買取キャンペーン」という名の略奪は、立ち退きを渋っていた住民たちの心を、目に見えない刃で削り取っていった。一人、また一人と、商店街の顔馴染みたちがブースへと吸い込まれ、数時間後には、憑き物が落ちたような、あるいは魂の芯が抜けてしまったような虚ろな表情で出てくる。 活気のあった八百屋の主人は、長年培ってきた「美味しい野菜の見分け方」だけでなく、常連客との軽妙なやり取りや、亡き父から受け継いだ商売の矜持さえも忘れてしまった。彼は、自分がなぜこの古びた店にこだわっていたのかさえ思い出せない様子で、淡々と店の什

商店街の状況は、伊織の懸念を遥かに超えるスピードで悪化していった。
 メモリーリンク社の「記憶買取キャンペーン」という名の略奪は、立ち退きを渋っていた住民たちの心を、目に見えない刃で削り取っていった。一人、また一人と、商店街の顔馴染みたちがブースへと吸い込まれ、数時間後には、憑き物が落ちたような、あるいは魂の芯が抜けてしまったような虚ろな表情で出てくる。
 活気のあった八百屋の主人は、長年培ってきた「美味しい野菜の見分け方」だけでなく、常連客との軽妙なやり取りや、亡き父から受け継いだ商売の矜持さえも忘れてしまった。彼は、自分がなぜこの古びた店にこだわっていたのかさえ思い出せない様子で、淡々と店の什器を粗大ゴミとして運び出し始めた。
 向かいの喫茶店の店主は、かつて誇らしげに語っていた「世界に一つだけのブレンド」の配合を忘れた。彼は、自分が淹れたコーヒーを「美味い」と言ってくれた客の笑顔を失い、ただの黒い液体を無感情にカップに注ぐ機械のようになってしまった。
 街全体が、まるで色が急速に褪せていく古い写真のように、あるいは音が消えていく無声映画のように、その個性を失い、均質化されていく。アーケードを歩く人々の足音さえも、どこか重く、湿り気を帯びて聞こえるようになった。
「伊織くん、わしも……もう、限界かもしれん」
 ある日の夜、辰巳爺が再び写真館を訪れた。彼の背中は以前よりも丸くなり、その瞳からはかつての知的な光が失われつつあった。
「記憶を売れば、楽になれる。過去の痛みも、志津子を失った悲しみも、すべて消えてなくなる。そう言われると、本当にそうかもしれんと思ってしまうんだ。志津子の声を思い出そうとするたびに、胸が締め付けられるように痛む。その痛みから逃げられるなら、わしは……」
「辰巳さん、売っちゃダメだ。それはあんた自身を捨てることと同じだ。痛みがあるからこそ、あんたはあんたなんだろう?」
 伊織はカウンターを叩き、必死に訴えた。しかし、辰巳の視線は宙を彷徨い、伊織の言葉は彼の心に届いていないようだった。
 売られた記憶は、メモリーリンク社の巨大なサーバーへと吸い上げられ、そこで高度なAIによって「再利用」される。玲奈が見せてくれたあの映像――痛みもノイズもない、完璧で空虚な「思い出」の数々。彼らは記憶から、人間を人間たらしめる「葛藤」や「音」という不純物を取り除き、純粋な快楽や感動の消費財へと加工しているのだ。そして、残された人間は、過去との繋がりを断たれた、空っぽの器へと成り下がる。
 伊織は、奥歯を噛み締めた。このままでは、母が守ろうとしたこの街が、そして母自身の存在の証明が、すべて消えてなくなってしまう。彼は決意した。今夜、メモリーリンク社の仮設オフィスに忍び込み、サーバーへのアクセスルートを確保する。母のデータの真相を、そして商店街の住民たちが奪われた「魂の響き」を取り戻すために。