記憶を売らない写真館 第12話「第11章:母の選択、僕の選択」
伊織が放った渾身の「音」は、地下空間を支配していた混沌を、瞬時にして鎮めた。 銀色のエネルギーは激しい明滅を止め、柔らかな乳白色の光となってシリンダーの中に落ち着いた。氾濫していた幻影たちは、夜明けの霧が晴れるように静かに消えていき、代わりに商店街の数百年にわたる歴史が、穏やかな走馬灯のように地下の壁面に映し出された。 その映像の中心に、15年前の母・葵の姿があった。 彼女は装置の前に座り、静かに目を閉じている。その隣には、若き日の辰巳爺が、断腸の思いで彼女を見守っていた。 「葵さん、本当にいいんだね。君の記憶をこの土地の礎にすれば、開発は止まる。だが、君は伊織くんのことを忘れ、自分の名前さえ
伊織が放った渾身の「音」は、地下空間を支配していた混沌を、瞬時にして鎮めた。
銀色のエネルギーは激しい明滅を止め、柔らかな乳白色の光となってシリンダーの中に落ち着いた。氾濫していた幻影たちは、夜明けの霧が晴れるように静かに消えていき、代わりに商店街の数百年にわたる歴史が、穏やかな走馬灯のように地下の壁面に映し出された。
その映像の中心に、15年前の母・葵の姿があった。
彼女は装置の前に座り、静かに目を閉じている。その隣には、若き日の辰巳爺が、断腸の思いで彼女を見守っていた。
「葵さん、本当にいいんだね。君の記憶をこの土地の礎にすれば、開発は止まる。だが、君は伊織くんのことを忘れ、自分の名前さえ失って、この街を去らなければならなくなるんだ」
「いいんです、辰巳さん。あの子の耳には、いつか私の声が届くはずだから。その時まで、この街の音を、あの子が帰ってくる場所を守ってあげたいの。記憶がなくなっても、愛していたという事実は消えないから」
葵は聖母のような微笑みを浮かべ、装置に触れた。彼女の体から、無数の光の粒子が溢れ出し、地下の壁へと吸い込まれていく。それが、商店街を守り続けてきた「封印」の真実だった。
映像の中の葵が、ふとこちらを振り向いたような気がした。現在の伊織と、過去の母の視線が、15年の時空を超えて、真っ直ぐに重なる。
「……伊織。大きくなったわね。立派な写真家になったのかしら」
それは幻聴かもしれない。だが、伊織にははっきりと、誰の声よりも鮮明に聞こえた。
「母さん、ありがとう。でも、もういいんだ。僕たちは、母さんに守られる子供じゃない。自分の足で、自分の音を奏でて歩いていけるよ」
伊織は、玲奈と協力して、装置の最終停止レバーをゆっくりと引いた。
母が15年間守り続けてきた「土地の記憶」を、特定の場所に縛り付けるのではなく、再び本来の持ち主である人々の心へと還すための操作だ。
地下施設全体が、祝福のような大きな揺れに見舞われ、眩い光が溢れ出した。光は天井を突き抜け、商店街のアーケードへ、そして街じゅうの家々へと、雪のように静かに降り注いだ。
メモリーリンク社に記憶を売った住人たちの元へ、失われたはずの「音」が戻っていく。
八百屋の主人は、亡き父と交わした「商売のコツ」と、その時の父の厳しくも優しい声を思い出した。
喫茶店の店主は、初めてコーヒーを淹れた時の香りと、最初の客が言ってくれた「美味しい」という一言の重みを思い出した。
そして玲奈の掌の中で、空っぽだったロケットペンダントが、確かな重みを持って震えた。彼女の耳には、二度と戻らないと思っていた両親の笑い声が、彼女のこれからの人生を支える賛美歌のように響いていた。
光が収まった時、地下施設は深い沈黙に包まれていた。装置は完全に機能を停止し、ただの古い鉄の塊へと戻っていた。
伊織は、すべての力を使い果たし、その場に倒れ込んだ。意識が遠のく中で、彼は誰かの温かい手を感じた。それは辰巳爺のものか、玲奈のものか、それとも――。