記憶を売らない写真館

記憶を売らない写真館 第11話「第10章:記憶の氾濫」

写真館の壁が崩落し、立ち込める土埃と現像液の匂いの中に、地下へと続く重厚な鋼鉄の扉が姿を現した。 メモリーリンク社の技術者たちが、防護服に身を包んで地下へと雪崩れ込んでいく。伊織と玲奈、そして辰巳爺も、混乱に乗じてその後を追った。 地下空間は、想像を絶する広大さと、異様な美しさを湛えていた。かつて母が封印したという「土地の記憶」を収束させるための、円環状の巨大な装置が、壁一面に血管のように張り巡らされている。中央には、巨大な透明なシリンダーがそびえ立ち、その中には銀色の液体のようなエネルギーが、意志を持っているかのように激しく明滅していた。 「最終シーケンス開始! 封印を解除し、全データを『デ

写真館の壁が崩落し、立ち込める土埃と現像液の匂いの中に、地下へと続く重厚な鋼鉄の扉が姿を現した。
 メモリーリンク社の技術者たちが、防護服に身を包んで地下へと雪崩れ込んでいく。伊織と玲奈、そして辰巳爺も、混乱に乗じてその後を追った。
 地下空間は、想像を絶する広大さと、異様な美しさを湛えていた。かつて母が封印したという「土地の記憶」を収束させるための、円環状の巨大な装置が、壁一面に血管のように張り巡らされている。中央には、巨大な透明なシリンダーがそびえ立ち、その中には銀色の液体のようなエネルギーが、意志を持っているかのように激しく明滅していた。
「最終シーケンス開始! 封印を解除し、全データを『デジタル・ヘヴン』のメインサーバーに転送しろ!」
 プロジェクトリーダーの叫びと共に、装置が異様な高周波を発し始めた。
 その瞬間、地下空間の空気が物理的に震え、視界が万華鏡のように歪んだ。装置から漏れ出したエネルギーが、人々の「記憶」を物質化させ、幻影として空間に溢れ出させたのだ。
 ――あ、お父さん? 死んだはずじゃ……。
 ――見て、昔の私だわ。こんなに笑ってたんだ。
 地下にいた作業員たちが、次々と自分の過去の幻影に囚われ、動きを止める。ある者は幼少期の自分と手を取り合い、ある者は亡くした恋人の姿を追いかけて壁に激突する。記憶の氾濫は、甘美な毒となって人々の意識を侵食し、現在と過去の境界線を曖昧にしていった。
「ダメだ、このままじゃみんな記憶の渦に飲み込まれて、二度と現実に戻ってこれなくなる!」
 伊織は、火花を散らす制御パネルへと走った。しかし、パネルは既にシステムによってロックされ、外部からの操作を一切受け付けない状態になっていた。
「伊織さん、これを! 私のIDなら、まだバックドアが開くはず!」
 玲奈が叫びながら、自分のスマートフォンを装置の端子に繋いだ。彼女がメモリーリンク社で密かに開発していた、システム強制停止用のウイルスプログラムだ。
「でも、これだけじゃ足りない。システムの核にある、母さんの『拒絶反応』を中和して、エネルギーを安定させるには、この場所の記憶と同期できる強力な『鍵』が必要なの!」
「鍵……母さんの音か」
 伊織は、母のデータの波形を再生し続けている自分のスマートフォンを取り出した。そして、シリンダーの中を荒れ狂う銀色のエネルギーに、直接手を伸ばした。
「伊織くん、危ない! 引き込まれるぞ!」
 辰巳爺の制止も届かない。伊織の指がエネルギーに触れた瞬間、数万、数億という人々の「音」が、津波となって彼の脳内に直接流れ込んできた。
 赤ん坊の産声、老人の最期の溜息、恋人たちの熱烈な囁き、戦いの怒号、静かな祈り、絶望のすすり泣き。
 それは世界のすべてを飲み込むような、巨大な情報の轟音だった。伊織の意識は木の葉のように翻弄され、時間の概念が消失していく。自分が誰なのか、ここがどこなのかも分からなくなるほどの、圧倒的な記憶の嵐。
 その混沌の真っただ中で、伊織は必死に一つの旋律を探し求めた。
 雨の音にかき消された、あの日の母の、本当の、たった一つの言葉。
 ――伊織、ごめんね。
 ――あなたには、この音を聞いてほしくなかった。こんな重荷を背負わせたくなかった。
 ――でも、もしあなたが、いつかこの音に辿り着いたなら……その時は、自分の未来を選んで。
 母の声が、荒れ狂う情報の海を切り裂いて、伊織の胸に響いた。伊織は、その声に向かって、自分の全存在を懸けて意識を集中させた。
「母さん……僕はもう、怖くないよ! この音を、みんなに還すんだ!」
 伊織は、母の「音」を自分の能力で極限まで増幅し、装置の心臓部へと叩き込んだ。それは「聞く」ための能力を、他者へと「伝える」ための力へと転換した、魂の叫びだった。