消える方言のラジオ局 第5話「第四章:実験と代償」
市場が半分だけ姿を取り戻した翌日、霧ノ浦は重苦しい沈黙に包まれていた。戻ってきた建物は、まるで書きかけのデッサンのように細部が欠落しており、そこを通る人々は一様に頭を押さえて顔をしかめていた。 「真帆、もうやめなさい。昨日の放送の後、町中で偏頭痛を訴える人が続出しているんだ。診療所はパンク状態で、みんなこめかみを押さえてうずくまっている。言葉を無理やり引きずり戻そうとした反動が、霧を通じて人々の脳を焼いているのよ」 澄江が、かつてないほど厳しい表情で真帆を諭した。その瞳には、恐怖と困惑が混ざり合っている。彼女自身の記憶も、砂時計の砂が底の抜けた穴からこぼれ落ちるように、刻一刻と不確かになってい
市場が半分だけ姿を取り戻した翌日、霧ノ浦は重苦しい沈黙に包まれていた。戻ってきた建物は、まるで書きかけのデッサンのように細部が欠落しており、そこを通る人々は一様に頭を押さえて顔をしかめていた。
「真帆、もうやめなさい。昨日の放送の後、町中で偏頭痛を訴える人が続出しているんだ。診療所はパンク状態で、みんなこめかみを押さえてうずくまっている。言葉を無理やり引きずり戻そうとした反動が、霧を通じて人々の脳を焼いているのよ」
澄江が、かつてないほど厳しい表情で真帆を諭した。その瞳には、恐怖と困惑が混ざり合っている。彼女自身の記憶も、砂時計の砂が底の抜けた穴からこぼれ落ちるように、刻一刻と不確かになっていた。さっきまで真帆の母の料理の話をしていたかと思えば、突然「今日は航平の小学校の入学式だね。ランドセルを準備しなきゃ」と、二十年以上前の記憶を現在のことのように語りだす。
「でも、おばあちゃん、このままじゃ町が消えちゃうよ。父さんのテープには、話し直せば戻るって書いてあったんだ」
「あの人の言うことなんて……!」
澄江の声が震えた。
「あの子は言葉に魅入られて、私たちを捨てたのよ。言葉を守るために、一番大切な家族との会話を捨てた。真帆、あなたまであんな風にならないでおくれ。記憶が消えても、あなたが無事でいてくれればそれでいいの」
真帆は反論できなかった。父の失踪は、残された家族にとって癒えない傷だ。しかし、父の残したテープから聞こえるあの切実な声が、単なる逃避だとはどうしても思えなかった。彼は何かから、私たちを守ろうとしていたのではないか。
その夜、真帆は蒼と共に、密かに放送室に忍び込んだ。外の霧はさらに濃くなり、もはや自分の手先さえ見えないほどだった。
「蒼くん、今度はもっと古い、町の本質に関わる言葉を流してみようと思う」
「危険だよ、真帆。昨日の反動を見たろ? 霧が深くなってるし、機材のノイズもひどくなってる。それに、町長たちが放送局を監視し始めているみたいだ」
蒼が警告する通り、スタジオ内の計器類は不規則に針を揺らしていた。霧がアンテナを通じて、物理的な圧力として建物にのしかかっているようだった。鉄骨が軋む音が、暗闇の中に響く。
「それでも、試さなきゃ。おばあちゃんの記憶が、どんどん混ざり合ってるんだ。このままじゃ、私のことも忘れちゃうかもしれない。大切な人が消えていくのを、ただ見てるなんてできない」
真帆は父のテープの中から『霧の井戸』というラベルの貼られたものを選んだ。
『――霧ノ浦の地下には、言葉を蓄積する「井戸」がある。それはかつて、この町を築いた人々が、迫害から逃れるために作り上げた概念の貯蔵庫だ。しかし、井戸が溢れれば、言葉は現実を侵食し始める。井戸の蓋が開くとき、言葉は武器にもなり、毒にもなる』
真帆はマイクを握り、深呼吸をした。心臓の鼓動が、全身に響く。
「……霧ノ浦の地下にある、古い井戸の話をします。それは私たちの言葉が眠る場所です。皆さんが忘れてしまった、大切な名前たちが眠る場所です」
言葉を発した瞬間、凄まじい衝撃が真帆を襲った。
スタジオの窓ガラスが激しく振動し、視界が真っ赤に染まる。頭の中に、何千人もの話し声が、何十年分もの記憶の奔流が、濁流のように流れ込んできた。
「うわあああ!」
蒼が耳を押さえてうずくまる。真帆もマイクを掴んだまま、意識が遠のくのを感じた。鼻の奥で鉄の匂いがした。
放送は数秒で遮断された。非常用電源が落ち、スタジオは完全な闇に包まれる。
「真帆! 大丈夫か!」
蒼の声で我に返った真帆は、自分の頬を何かが伝うのを感じた。指で触れると、それは涙ではなく、温かい血だった。鼻血が出ていた。
そして、窓の外を見た二人は息を呑んだ。
霧は晴れるどころか、町を完全に遮断するように、巨大な白い壁となって天まで届いていた。それはもはや気象現象ではなく、この世界からの拒絶だった。