消える方言のラジオ局

消える方言のラジオ局 第4話「第三章:霧の中のノイズ」

二度目の消失は、あまりにも唐突に、そして暴力的に訪れた。 翌日の昼下がり、町全体を激しい耳鳴りが襲った。キーンという高周波の音が頭の中に響き、人々は路上で耳を押さえてうずくまった。真帆がFM局の窓から下を見下ろすと、港にある巨大な魚市場「いさば」の建物が、霧の中に溶けるようにして輪郭を失っていくのが見えた。 「『いさば』が……消える!」 真帆は叫んだ。市場は霧ノ浦の経済の心臓部であり、何百人もの漁師や仲買人が集まる場所だ。それが今、物理的な実体を失おうとしていた。 しかし、隣にいた澄江は不思議そうな顔で彼女を見た。 「真帆、何を言っているんだい? あそこにあるのはただの空き地だよ。昔からずっと

二度目の消失は、あまりにも唐突に、そして暴力的に訪れた。
 翌日の昼下がり、町全体を激しい耳鳴りが襲った。キーンという高周波の音が頭の中に響き、人々は路上で耳を押さえてうずくまった。真帆がFM局の窓から下を見下ろすと、港にある巨大な魚市場「いさば」の建物が、霧の中に溶けるようにして輪郭を失っていくのが見えた。
「『いさば』が……消える!」
 真帆は叫んだ。市場は霧ノ浦の経済の心臓部であり、何百人もの漁師や仲買人が集まる場所だ。それが今、物理的な実体を失おうとしていた。
 しかし、隣にいた澄江は不思議そうな顔で彼女を見た。
「真帆、何を言っているんだい? あそこにあるのはただの空き地だよ。昔からずっとね。あそこをどう活用するか、町長さんも悩んでいるみたいだけど」
 言葉が消える。それに伴い、何千人もの人々の生活を支えてきた市場の存在そのものが、歴史から抹消されていく。町の人々は、自分たちがどこで魚を売り買いしていたのかさえ思い出せず、呆然と霧の立ち込める空き地を見つめていた。昨日までそこで働いていたはずの男たちが、「自分はなぜここに立っているんだ?」と首を傾げている。
「蒼くん、早く!」
 真帆は蒼を促し、スタジオのミキサーの前に座った。
「父さんのテープから『いさば』という言葉を探して。それを今すぐ放送に乗せるんだ」
「でも、父さんの声で流すだけじゃダメなんだろ? 真帆が自分で喋らないと。君の言葉で、今の市場を定義し直すんだ」
 蒼の指摘に、真帆はたじろいだ。人前で話すことが苦手で、いつも台本通りにしか喋れない自分が、失われた言葉に「新しい命」を吹き込むことなんてできるのだろうか。自分の声が、世界を繋ぎ止める力を持っているなんて、到底信じられなかった。
「……やるしかないよ。おばあちゃんも、町のみんなも、全部忘れちゃう前に。私が、私の声を出すんだ」
 真帆は震える指でマイクのスイッチを入れた。赤い「ON AIR」のランプが、血のように鮮やかに点灯する。
「……ええと、霧ノ浦の皆さん。聞こえますか。私は、汐見真帆です」
 声が震える。ヘッドホンから聞こえる自分の声が、ひどく頼りなく、霧の中に吸い込まれていくように感じられた。
「今、皆さんの頭の中から消えてしまった場所があります。そこは『いさば』と呼ばれていました。潮の匂いがして、朝早くから漁師さんたちの威勢のいい声が響いて、水揚げされたばかりの魚が跳ねていて……」
 真帆は必死に、自分の記憶の中にある市場の風景を言葉に紡いだ。幼い頃、父に連れられて行った時の、あの独特の熱気と活気を思い出す。
「私が小さい頃、お父さんと一緒にそこに行って、大きな銀色の魚を見せてもらったんです。お父さんは言いました。『ここが町の心臓なんだよ。言葉が血のように流れて、町を動かしているんだ』って。皆さん、思い出してください。私たちの『いさば』を!」
 その瞬間、スタジオの窓の外で、霧が激しく渦巻いた。凄まじいノイズが走り、真帆の視界が白く染まる。
「いさば! 私たちの、魚市場!」
 真帆が叫ぶようにしてその名を口にしたとき、パチンと何かが弾けるような音がした。
 霧が薄れ、空き地だった場所に、錆びたトタン屋根とコンクリートの床が、幽霊のように浮かび上がってきた。
「……戻った?」
 蒼が声を上げた。しかし、完全ではなかった。市場の建物は戻ったものの、そこにいたはずの人々の姿はなく、看板の文字も半分以上が消えたままだ。建物はまるで、長い間放棄されていた廃墟のように荒れ果てていた。
「話し直すだけじゃ、足りないんだ。過去をそのまま戻すことはできない」
 真帆はマイクを切り、大きく肩で息をした。
 言葉を取り戻すことは、過去を完全に復元することではない。それは、傷ついた記憶を抱えながら、新しい関係を築き直すことなのだと、真帆は予感していた。そして、その様子を霧の向こうから見つめている「誰か」の視線を、真帆は確かに感じていた。