消える方言のラジオ局 第3話「第二章:父の遺産」
FM局の地下にある記録保管庫は、埃とカビの匂いが立ち込めていた。そこには、開局以来のすべての放送データが、オープンリールやカセットテープ、デジタルメディアの形で収められているはずだった。 しかし、昨夜の録音テープを確認した二人は絶句した。 「消えてる……」 澄江が「あなじ」という言葉を口にしたはずの数秒間だけ、テープは完全な無音になっていた。磁気テープの粒子が物理的に剥がれ落ちたかのような、不自然な欠落。ノイズさえも入っていない、真空のような静寂。 「これじゃ、証拠にならないね。物理的な記録まで書き換えられている」 蒼が溜息をつき、頭を抱えた。真帆は諦めきれず、さらに奥の、普段は誰も立ち入らな
FM局の地下にある記録保管庫は、埃とカビの匂いが立ち込めていた。そこには、開局以来のすべての放送データが、オープンリールやカセットテープ、デジタルメディアの形で収められているはずだった。
しかし、昨夜の録音テープを確認した二人は絶句した。
「消えてる……」
澄江が「あなじ」という言葉を口にしたはずの数秒間だけ、テープは完全な無音になっていた。磁気テープの粒子が物理的に剥がれ落ちたかのような、不自然な欠落。ノイズさえも入っていない、真空のような静寂。
「これじゃ、証拠にならないね。物理的な記録まで書き換えられている」
蒼が溜息をつき、頭を抱えた。真帆は諦めきれず、さらに奥の、普段は誰も立ち入らない棚を探った。そこには、FM局の公式な記録とは別に、手書きのラベルが貼られた古いカセットテープの山が、乱雑に積み上げられていた。
『霧ノ浦言語調査記録 一九九五年〜 汐見航平』
父の字だ。力強く、少し右上がりのその筆跡を見て、真帆は鼓動が速くなるのを感じた。父は失踪する直前まで、この町の言葉を執拗に追いかけていた。なぜ彼は、これほどまでに方言に固執していたのか。その答えが、ここにあるかもしれない。
「真帆、これ……」
蒼が一本のテープを手に取った。ラベルには『霧の共鳴と消失の予兆』と書かれている。日付は父が失踪するわずか三日前のものだった。
真帆は震える手でそのテープをラジカセにセットし、再生ボタンを押した。
『――言葉は、単なる記号ではない。それは認識の楔(くさび)だ』
スピーカーから流れてきたのは、間違いなく父の声だった。若々しく、情熱を帯びた、けれどどこか疲弊した響き。
『この町を包む霧は、特殊な電磁波を帯びている。そして、人々の想いが詰まった「古い言葉」が特定の周波数で発せられたとき、霧はそれを吸収し、現実から切り離してしまう。私はそれを「言語の蒸発」と名付けた。言葉が蒸発すれば、その言葉によって支えられていた記憶の土台が崩れ、世界そのものが欠落していくのだ』
父の声は、予言者のような重々しさで警告を続けていた。
『一度蒸発した言葉を取り戻す方法は一つしかない。それは、失われた言葉を、過去の記録として再生するのではなく、現在の人間が「自分の意志」で話し直すことだ。誰かに向けて、今の想いを乗せて語りかける。そうでなければ、町は記憶を失い、やがて霧の中に完全に溶け去ってしまうだろう。私はこれから、その「井戸」の核心へ向かう……』
テープはそこで唐突に終わっていた。
「話し直す……?」
真帆は呟いた。父は十年前から、この事態を予見していたのだ。そして、そのために言葉を探しに行き、自らも霧の一部となってしまったのではないか。
「真帆、あなじだけじゃない。さっき町を通ったら、魚市場の看板も文字が掠れてた。次の言葉が消えようとしてるんだ。急がないと、取り返しのつかないことになる」
蒼の言葉に、真帆は父のテープを強く握りしめた。彼女の掌には、冷たい汗が滲んでいた。