消える方言のラジオ局

消える方言のラジオ局 第2話「第一章:失われた「あなじ」」

異変に気づいたのは、翌朝の食卓だった。 「真帆、今日は少し肌寒いね。窓を閉めておくれ。強い……ええと、あれが吹いているから」 澄江が窓の外を指差して言った。真帆は首を傾げた。 「あれって、何?」 「ほら、北から吹いてくる、冬の訪れを告げる冷たい風のことだよ。名前があったはずなんだけど……。おかしいわね、喉まで出かかっているのに」 澄江は困惑したように眉を寄せ、自分の記憶の糸を手繰り寄せるように空を見つめた。真帆の脳裏に、昨夜の放送で澄江が話していた内容が鮮明に蘇る。 『皆さん、今夜は「あなじ」が強いですね。海に出る方は気をつけて』 あなじ。それは霧ノ浦の古い方言で、北風を意味する言葉だ。単なる

異変に気づいたのは、翌朝の食卓だった。
「真帆、今日は少し肌寒いね。窓を閉めておくれ。強い……ええと、あれが吹いているから」
 澄江が窓の外を指差して言った。真帆は首を傾げた。
「あれって、何?」
「ほら、北から吹いてくる、冬の訪れを告げる冷たい風のことだよ。名前があったはずなんだけど……。おかしいわね、喉まで出かかっているのに」
 澄江は困惑したように眉を寄せ、自分の記憶の糸を手繰り寄せるように空を見つめた。真帆の脳裏に、昨夜の放送で澄江が話していた内容が鮮明に蘇る。
『皆さん、今夜は「あなじ」が強いですね。海に出る方は気をつけて』
 あなじ。それは霧ノ浦の古い方言で、北風を意味する言葉だ。単なる「北風」という気象現象以上の響きを持っていた。冬の訪れを告げ、干し魚の準備を促し、子供たちに厚着をさせるための、生活に根ざした合図のような言葉。しかし、今その言葉を思い出そうとすると、頭の中に冷たく白い霧がかかったように、概念の輪郭がさらさらと霧散してしまう。
「『あなじ』……でしょ? おばあちゃん」
 真帆が口にすると、澄江は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「アナジ? 何だいそれは。真帆、変な造語を作っちゃいけないよ。そんな言葉、聞いたこともないわ」
 背筋に冷たいものが走った。真帆は急いでスマートフォンを取り出し、「霧ノ浦 方言 あなじ」と検索した。しかし、検索結果には「一致する情報は見つかりませんでした」という無慈悲な文字が並ぶ。昨日まで確かに存在していた地元の観光サイトの「方言辞典」のページからも、その項目だけが綺麗に消えていた。
 学校へ行くと、事態はさらに深刻だった。
「ねえ、昨日の夜から変じゃない? みんな、冬の風のことをなんて呼べばいいか分からなくなってるんだ。先生も、授業で『北風』って言おうとして詰まってたし」
 同級生の桐生蒼(きりゅう あおい)が、教室の隅で真帆に囁いた。蒼は町で唯一の電気屋の息子で、FM局の機材メンテナンスも担当している。彼は論理的で、町に伝わる怪異に対しても冷めた目を持っていたが、今の彼の瞳には明らかな動揺が走っていた。
「蒼くんもなの? 『あなじ』っていう言葉、覚えてない?」
「アナジ……? 聞いたことがあるような気がするけど、意味が結びつかない。それより見てくれよ、これ」
 蒼が指差したのは、教室の掲示板に貼られた町の地図だった。海沿いのエリアに記されていた「あなじ岬」という地名が、まるで消しゴムで消されたように白くなっている。単に文字が消えただけではない。その岬の周辺にあるキャンプ場や灯台の記憶までもが、人々の間で曖昧になっていた。
「言葉が消えただけじゃない。その言葉が指していた場所や、記憶まで消えてるんだ。認識から消えることで、現実からも抹消されようとしている」
 真帆は、昨日のノイズを思い出した。あの父の声のような響き。あれが、この現象の引き金になったのではないか。
「蒼くん、お願い。FM局の昨日の録音、一緒に解析してほしい。何か、とんでもないことが起きている気がするの」
 二人は放課後、さらに深く濃くなった霧の中を、放送局へと向かった。