消える方言のラジオ局

消える方言のラジオ局 第1話「プロローグ:霧の始まり」

海霧(じり)が、町の輪郭を飲み込んでいた。 太平洋に突き出した小さな港町、霧ノ浦(きりのうら)の朝は、いつも白く濁った沈黙から始まる。冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、数メートル先を歩く人の背中さえ、水墨画の筆致のように曖昧にぼかしてしまう。この町の人々は、その霧を「海からの贈り物」と呼び、同時に「記憶を運ぶ船」と呼んで畏れた。霧は、海から冷気と共に運ばれてくる微細な水滴の集まりだが、霧ノ浦のそれはどこか意志を持っているかのように、音を吸い込み、光を屈折させ、人々の認識を惑わせる。 高校二年生の汐見真帆(しおみ まほ)は、霧の中を泳ぐようにして、高台にある古い火の見やぐらを目指していた。錆び

海霧(じり)が、町の輪郭を飲み込んでいた。
 太平洋に突き出した小さな港町、霧ノ浦(きりのうら)の朝は、いつも白く濁った沈黙から始まる。冷たく湿った空気が肌にまとわりつき、数メートル先を歩く人の背中さえ、水墨画の筆致のように曖昧にぼかしてしまう。この町の人々は、その霧を「海からの贈り物」と呼び、同時に「記憶を運ぶ船」と呼んで畏れた。霧は、海から冷気と共に運ばれてくる微細な水滴の集まりだが、霧ノ浦のそれはどこか意志を持っているかのように、音を吸い込み、光を屈折させ、人々の認識を惑わせる。
 高校二年生の汐見真帆(しおみ まほ)は、霧の中を泳ぐようにして、高台にある古い火の見やぐらを目指していた。錆びついた鉄骨が霧の向こうから巨大な骸骨のように現れる。そこが、町の唯一の放送局「FM霧ノ浦」だ。かつては町の火災を監視するために建てられたそのやぐらは、今では見えない電波を飛ばし、見えない霧と戦うための砦となっていた。
 真帆は、重い鉄の扉を開け、階段を上った。スタジオの中は、古い電子機器の熱気と、祖母が淹れた安っぽいインスタントコーヒーの香りが混ざり合っている。この狭い空間だけが、外の白い混沌から切り離された、確かな「現実」だった。
「おはよう、真帆。今日も早いね」
 マイクの前に座っていた祖母の澄江が、ヘッドホンをずらして微笑んだ。七十歳を過ぎてもその声は鈴を転がすように清涼で、町中の人々を癒やす「霧ノ浦の宝」だった。彼女の声がラジオから流れる時だけ、町の霧は少しだけ薄れるような気がすると、多くの町民が言っていた。
「おはよう、おばあちゃん。マイクのテスト、手伝うよ」
 真帆は夏休みの間、この放送局でボランティアをしている。自分の言葉を外に出すのが苦手で、いつもクラスの隅で息を潜めている彼女にとって、機械を通じて誰かに声を届けるこの場所は、唯一の避難所だった。マイクに向かっている時だけは、自分が何者かになれるような、そんな錯覚を抱くことができた。
 真帆がミキサーのフェーダーを上げ、モニター用のヘッドホンを装着した、その時だった。
「――……ま……ほ……」
 鼓膜を刺すような鋭いノイズの隙間から、掠れた声が聞こえた。
 真帆は息を呑んだ。それは、十年前の霧の日に「言葉を探しに行く」と言い残して失踪した父、航平の声に酷似していた。父は高名な言語学者で、この町の特異な方言を研究していた。しかし、ある朝、一冊のノートと録音機を持って霧の中に消え、二度と戻ってこなかった。
「……おばあちゃん、今、何か聞こえた?」
「え? ノイズかしら。このアンテナも古いからね。海風で塩害もひどいし、そろそろガタが来ているのかも」
 澄江は気にする様子もなく、放送開始のジングルを流した。しかし、真帆の指先は微かに震えていた。ノイズの中に混じっていたのは、単なる声ではない。それは、聞いたこともない、けれど魂の奥底を揺さぶるような懐かしい響きを持った「古い言葉」だった。
 その日の夕方、霧ノ浦から最初の言葉が消えた。それは、誰も予期しなかった崩壊の始まりだった。