消える方言のラジオ局 第10話「第九章:崩壊するアイデンティティ」
「そこまでだ、汐見真帆!」 扉を蹴破って入ってきたのは、町長の門倉と数人の男たちだった。彼らはガスマスクのような装置をつけ、手には機材を破壊するためのバールを持っていた。 「町長、やめてください! 今、お父さんが……」 「幽霊の話か? 下らない。この場所を物理的に破壊すれば、霧の干渉も収まるはずだ。さあ、どけ! これは町の未来のための排除だ」 門倉が真帆を突き飛ばそうとした、その瞬間。 世界から「音」が消えた。 正確には、ある特定の概念が、人々の意識から完全に欠落したのだ。 「……が……何を……」 門倉が口をパクパクとさせている。彼は何かを言おうとしているが、主語が出てこないようだった。彼は自
「そこまでだ、汐見真帆!」
扉を蹴破って入ってきたのは、町長の門倉と数人の男たちだった。彼らはガスマスクのような装置をつけ、手には機材を破壊するためのバールを持っていた。
「町長、やめてください! 今、お父さんが……」
「幽霊の話か? 下らない。この場所を物理的に破壊すれば、霧の干渉も収まるはずだ。さあ、どけ! これは町の未来のための排除だ」
門倉が真帆を突き飛ばそうとした、その瞬間。
世界から「音」が消えた。
正確には、ある特定の概念が、人々の意識から完全に欠落したのだ。
「……が……何を……」
門倉が口をパクパクとさせている。彼は何かを言おうとしているが、主語が出てこないようだった。彼は自分の胸を指差すが、そこにどんな言葉を当てはめればいいのかが分からない。
真帆もまた、自分の中に異変を感じた。
(私は……私は……)
自分のことを指し示す言葉。「私」「僕」「俺」「自分」。一人称という概念が、霧の中に溶けて消えてしまったのだ。
主語を失った人々は、自分が誰であるかを認識できなくなった。門倉はバールを落とし、自分の手を見つめて震えている。警備員たちは、なぜここにいるのか、誰の命令で動いているのかが分からなくなり、その場にへたり込んだ。彼らの瞳から、意志の光が急速に失われていく。
町全体が、巨大な無個性の海へと沈んでいく。他者との境界がなくなり、意識が混ざり合う恐怖。それは死よりも深い、自己の喪失だった。
「……まほ……」
隣で蒼が呟いた。彼はまだ、真帆の名前を覚えていた。しかし、彼自身のことはもう思い出せないようだった。
「……くん……」
真帆もまた、彼の名前を呼ぼうとして、喉が詰まった。自分という中心を失った言葉は、行き場を失って虚空に消える。
このままでは、霧ノ浦の全員が、一つの巨大な「霧の意志」に飲み込まれてしまう。個人の尊厳も、記憶も、すべてが均一な白に塗りつぶされる。
真帆は必死に、父の言葉を思い出した。
『自分の意志で、話し直すんだ』
真帆は、這うようにしてマイクの前に戻った。電源はまだ生きている。蒼が命懸けで繋いだ回路が、微かに熱を持っている。それは、この絶望的な状況下で唯一残された、人間性の鼓動だった。
真帆はマイクを両手で包み込み、目を閉じた。
一人称がないのなら、名前を呼べばいい。自分の存在を定義できないのなら、目の前の景色を、今の感情を、言葉にすればいい。
「……海が見えます」
真帆は、絞り出すような声で話し始めた。
「霧の向こうに、本当はあるはずの、青い海が見えます。カモメの声が聞こえます。今、私の隣には、大切な友達がいます。彼の名前は蒼くんです。彼は機械が好きで、いつも少し難しい顔をしていて、でも本当はとても優しい人です」
真帆の言葉が、スタジオの空気を震わせる。
「そして、私の名前は……私の名前は、汐見真帆です!」
その瞬間、真帆の胸の奥で、熱い塊が弾けた。
「私は、ここにいます! おばあちゃんの孫で、お父さんの娘で、霧ノ浦の高校生である、私がここにいるんです! 誰にも、私の言葉を奪わせない!」
放送波が、霧の壁を突き破り、町中に響き渡った。
主語を失っていた人々の瞳に、光が戻り始める。門倉は自分の胸に手を当て、「私……」と小さく呟いた。彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
しかし、これはまだ始まりに過ぎなかった。
霧の最深部にある「井戸」が、真帆の声に呼応して、かつてない激しさで逆流を始めたのだ。