夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第9話「第8章」

倉庫街の一角に設えられた会場は、外から見るとただの廃工場だった。鉄の格子戸の隙間から漏れる蒸気と、古いテープの匂いが路地を漂う。入り口の前でココロが短く合図を送り、三人は互いに目を合わせてから静かに中へ滑り込んだ。人々のざわめき、ラジカセの低いノイズ、線香のような甘い香り──商業化された夢の「体験会場」は、アナログの匂いで満ちていた。

倉庫街の一角に設えられた会場は、外から見るとただの廃工場だった。鉄の格子戸の隙間から漏れる蒸気と、古いテープの匂いが路地を漂う。入り口の前でココロが短く合図を送り、三人は互いに目を合わせてから静かに中へ滑り込んだ。人々のざわめき、ラジカセの低いノイズ、線香のような甘い香り──商業化された夢の「体験会場」は、アナログの匂いで満ちていた。

会場内は薄暗く、天井からは古いカセットデッキが吊るされ、壁際に並ぶのは被験者を寝かせるための簡易マット。中央には大きなテーブルがあり、そこには連合が用いるらしい装置が鎮座していた。円錐状のコイル、たくさんの配線、そして底に彫られた小さな刻印──周期的に点滅するLEDの脈が、周囲の空気を不穏に震わせている。

「見ろ」蓮見が指先でひとつの配線を指した。そこに刻まれた文字列は、先日解析したビープの波形のパターンと同じだった。赤いマーキングが示す位置に、封じ歌の紙片をはめ込むためのスロット。連合は封じ歌の一行を回路の一部として組み込もうとしている。

天音は胸の奥で冷たいものを感じた。蔵の封じ歌が、誰かの手でここに来ている。彼女はその紙片を取り戻したい気持ちで胸が締めつけられたが、目の前には眠る群衆があった。簡易マットの上に横たわるのは金切れの若者や、疲れた中年の顔、そして参加料を払って眠りについた好奇心旺盛な顔たちだった。彼らの夢に、何かがすでに紛れ込んでいる。

「回収が先か、救出が先かだ」硝が低く言った。ラジカセを背負ったまま、彼の指は改造したノブに触れていた。擦れるような微細な音が小さなアンカーとして部屋に残る。硝はアンカー装置を外して天音へ近づき、小さなメモリー波形を耳元に当てる。その擦れる音は、現実へ引き戻すための合図になるはずだ。

天音は蓮見の顔を見た。蓮見は端末の画面を押さえ、装置の構成図をなぞるように喋った。「彼らはここで主題の抽出を実験している。封じ歌の断片を回路に入れ、周期ビープで位相を同期させれば、夢の主題が機械的に抽出される。抽出された主題はデータ化され、売買される──そういう仕組みだ」

「取り戻すべきは譜の一行だけじゃない」ココロが軽い声で続ける。「ここにあるのは、作りかけの装置。完全動作すれば、多数の夢が同時に加工される。今日の参加者はその実験台にすぎない」

真白は人混みを見下ろすように立ち、冷たい笑みを一瞬だけ浮かべた。「私が交渉した者たちもいる。だが連合は裏切りを繰り返す。交渉路を閉じるのは私の役目じゃない。あなたが歌うなら、私は内側を潰す」

計画は単純ではなかった。天音が歌って夢の中に入るには、対象の眠りが深いこと、カセットが一本一夜限定であること、その夜同じ相手に同じ歌を連続して使えないこと。万一、歌の「主題」を忘れれば、彼女自身が夢に戻れなくなる危険がある。蔵で聞いた祖母の戒めが、喉の奥で響いた。

「救えない人を出すわけにはいかない」天音はつぶやいた。声はまだかすれていたが、決意は固かった。「封じ歌を取り返すのは後でもできる。今はここにいる人々を優先する。私が短時間だけ入って、残響が出ている場所を見つけて閉じる。戻るためのアンカーは硝が確保する。蓮見は装置の位相を監視して」

計画はすぐに実行に移された。真白は会場の雑踏へ紛れて連合の幹部の注意を引き付ける。ココロは裏口の監視を外し、蓮見は装置のビープ波形をリアルタイムで解析した。硝は天音の首に小さなヘッドセットを固定し、擦れる音を再生して微細な位相差を合わせる。天音はポケットから劣化カセットを取り出し、唇に当てた。テープは古びた紙の匂いを放ち、磁気のざらつきが指先に残る。

「制約は守る」天音は小さく言った。「同じ夢者には歌わない。自分の夢には入れない。誰かの意思を消すような歌は絶対に歌わない」

そして、彼女は歌い始めた。短い一節を、宙に浮かぶように吹き込む。歌はカセットの摩滅した溝に乗り、硝の改造デッキから微かな歪みとともに会場へ流れた。音は消え入りそうで、それでいて確かに参加者の耳と心に届いた。

夢境はいつもより濃密に立ち上がった。天音は瞬間的に複数の夢へと引き込まれ、同時に幾つかの視界が重なり合った。老夫婦の窓辺の光、子どもの頃の公園の木陰、燃えるような赤いキャンバス。だがその中に違和感があった。夢の縁に黒い影がうごめき、形無きざわめきが人の思い出を削っていた。

それが残響だと天音は直感した。忘れられた主題の欠片が自律的に振る舞い、夢の中に「在るべきでない」節や語を増殖させている。そこに触れれば、夢者の記憶を戻すどころか新たな穴を穿つ危険がある。

天音は対象を選び、最も脆い場所へそっと歌を重ねた。彼女の歌は治癒に向けて織り込まれ、夢の裂け目を縫うように作用する。眠る若者の顔にかすかな安堵が広がる。しかし同時に、どこかで響いた周期的なビープの共鳴が、残響を刺激した。残響は脈打ち、天音の歌の主題の輪郭に吸い寄せられていく。

「戻れ、戻れ」硝の声が遠くで聞こえた。現実側で彼が擦れる音を強め、アンカーの位相を揃えている。だが夢は手強かった。残響は夢の迷路の通路を閉ざすように動き、天音の帰路を曲げた。彼女は歌い続け、手早く裂け目を塞いで複数の夢者を救った。だが最後の縫い合わせを行った瞬間、彼女はその残響の一部に指を触れてしまった。

それは吸着のように、あるいは寄生のように天音の歌声に絡みついた。夢の空間で、暗い影が彼女の歌の端を掴み取ろうとする。天音の胸に冷たい刃が刺さるような痛みが走り、意識の縁がふらついた。歌の「主題」が焦点を失いかける——忘却の前兆だ。

硝のアンカーがひとつ、ふたつと鳴る。擦れる音が天音の内耳を撫で、糸のような細い手が彼女を現実へ引き戻す。しかし残響は粘り強く、天音の歌の一部を巻き込んで現実へと噛み合わさるように寄せてきた。彼女は最後の力を振り絞り、封じるように一節を吐いた。歌は断続的に途切れ、しかし確かに残響の輪郭を縛り付けた。

目が覚めたとき、天音は重たい喉と空虚な言葉の感覚を抱えていた。身体は床に横たわり、周囲からは人々のざわめきと救急のささやきが聞こえる。硝が彼女の手を握り、その額には血の気が滲んでいた。「大丈夫か?」彼はラジカセを耳元に当て、擦れる音を確かめる。その音が、今は彼女を繋ぎとめるための唯一の糸だ。

蓮見が端末画面を見下ろし、顔色を変えた。「装置は一時的に乱れた。位相がずれたから、抽出は失敗した──だが、残響が一つこちらに付いてきている。テストで見た残響の兆候だ」

天音は胸の中に残る、冷たい小石のような違和感に気づいた。触れたものの輪郭が、彼女の内側に残っている。小さな影のように、夢の断片が付着している。彼女はゆっくりと口を開けて言葉を探したが、最初に出たのは断片的な音だった。「――こわれる、匂い、線香……」

硝はその断片を聞き取り、目を見開いた。「それは残響の断片だ。天音、無理するな。声を出そうとする余計な力は、忘却の進行を早める。蓮見、どうする?」

蓮見は画面に指を滑らせ、会場の録画映像を拡大した。残響が付着した瞬間、テープのノイズが奇妙に倍音を帯び、天音の歌の周波数が乱反射していた。蓮見は小さ