夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第10話「第9章」

夜の街は、ラジカセの残響でざわついていた。配電盤の低い唸り、ココロの店先に並んだ短尺テープの紙箱、線香の焦げた匂い――それらが混ざり合って、千尋の夜特有の温度を作っている。天音は冷たい風を胸に受け、蔵から持ち出した封じ歌の断片をぎゅっと握り締めた。指の間で紙の端が震え、そこに記された一行が彼女の視界で揺れた。まるで何かがその言葉を待っているように。

夜の街は、ラジカセの残響でざわついていた。配電盤の低い唸り、ココロの店先に並んだ短尺テープの紙箱、線香の焦げた匂い――それらが混ざり合って、千尋の夜特有の温度を作っている。天音は冷たい風を胸に受け、蔵から持ち出した封じ歌の断片をぎゅっと握り締めた。指の間で紙の端が震え、そこに記された一行が彼女の視界で揺れた。まるで何かがその言葉を待っているように。

「連合が来る」蓮見が低く告げる。端末の地図上に、赤い点が三つ、四つと点滅している。海鼠色のモニターの中で、それらはどれも夜の倉庫か、路地裏のビルを示していた。ココロは袋の中の回収テープを見つめ、唇を噛む。「奴らは一気に回収に来る。封じ歌の残りと、あのビープ音を持ち出せば──商売になる。いや、利用価値だ」

真白が静かに首を振る。薄い月光が彼女の髪を銀色に染め、瞳には冷たい計算が宿っている。「中にいるのはプロだ。装置を守るロータリーと、夢の抽出を行うチーム。正面から潰すと人が死ぬ。だが放っておけば、彼らは封じ歌を解析して主題を奪う。奪われたら、もっとたくさんの人が戻れなくなる」

硝はラジカセを抱え、いつもより速くノブを回した。擦れるような音が短く、しかし確かに鳴る。彼はその音を耳に充て、フレーズごとに顔をしかめる。「アンカーは準備した。だが現場に持ち込むには装置の瓦解が必要だ。蓮見、位相の反転は間に合うのか?」

蓮見の指は端末の表面を滑る。昨夜の乱れから解析した回路図がテーブルに広げられ、波形の線が鬼のように入り組んでいる。「理論上は可能だ。周期ビープの位相を反転すれば、抽出プロセスの同調が破綻する。ただし、あれはカセットだけで動くものじゃない。装置側でのゲイン調整とタイミングが必要だ。物理的に侵入してトリガーを掛ける奴が必要だ」

「それ、私がやる」真白の声は無駄を削いだ刃だ。彼女は短い手袋をはめ、腰の小さなポーチから薄い金属片を取り出した。「中に潜りこむ。あなたたちは表で囮を作れ。天音は――」視線が天音に落ちる。

天音は喉が詰まるような感覚を覚えた。胸の中の影はまだそこにある。夢の残響が彼女の内部で小さくうごめき、時折冷たい痛みを喉奥に差し込む。昨夜と今朝のあいだに、彼女はいくつかの言葉を失っていた。名前や場所、遊び場の匂いのような些末な記憶が断片になって落ちている。その代償は確実に進行している。

「私が入る」天音は息を作った。声はひどく乾いていたが、硝の目を見ると決意が固まるのがわかる。彼はラジカセをぎゅっと抱え、擦れる音で彼女を繋いでいた。あの音が、いまの彼女を現実に戻す唯一の糸だ。硝のアンカーがあれば、どれだけ深く潜っても引き戻せる──そう信じたい。

「一つだけ条件がある」蓮見が言った。「一夜につき一本のカセット。主題を歌うときは、その主題を忘れたら帰れなくなる。天音、連続使用は禁忌だ。これが終わったら、必ず現実側の確認を取るんだ」

天音はうなずく。カセットを一巻取り出し、自分の声で短く歌を吹き込んだ。レトロなマイクに息が触れると、テープは少しだけきしむ。録音ランプの赤が粉っぽく光る。彼女は歌詞の核心部分を噛みしめるように繰り返した。封じ歌の断片が胸に残るが、それはまだ全部ではない。だが今は時間がない。

「行くぞ」真白が低く囁き、影のように倉庫の中へ消える。硝は天音の手を軽く握り、ラジカセを耳元で擦れる音を流し続けた。「帰って来い。お前の声をここに刻むんだ」

現場は工場のような倉庫だった。油の匂い、鉄の匂い、人の汗の匂いが入り混じる。連合の傭兵と見られる者たちが配置に就き、中央には白い筒状の装置が据えられていた。装置の周囲には幾重にも配置されたカセットが並び、周期的なビープ音が空気を震わせている。その音には、どこか馴染みがあった。天音の脳裏で、幼い頃に祖母の蔵で聞いたビープがうっすらと反芻した。

真白が内部で小さな混乱を起こす間、硝は仲間たちと表を固めた。ココロは回収テープを投げ、そこから撒き散らされた帯に紛れて小型の妨害器が滑り込む。蓮見は端末を操作し、位相を反転させるための信号を準備する。天音は倉庫の隅で自分のカセットをしっかり抱え、深呼吸を一度だけした。

「行くよ」彼女は小さく言い、録音したテープを装置の近くに置かれた小さなプレイヤーに挿入した。再生ボタンを押す。テープはざらつくような音を立て、彼女の歌が薄いフィルムの向こうで響いた。夢歌の条件が満たされる瞬間、現実と重なる薄氷が割れるように世界が変化した。

意識はスリップした。倉庫の機械の震えが、遠くの波紋のように薄れていく。目の前には硝の顔が一瞬光り、すぐに夢の通路へと変わった。瓦礫でできた階段、蛍光灯の切れたトンネル、そしてあの黒い残響が立ちはだかる。残響は自律性を帯び、天音の歌の端を掴んで笑っているように見えた。

「硝」天音は呼んだ。声が夢の空間で細く引き裂かれる。硝の姿は不確かで、風景の中に埋もれていた。彼女は手を伸ばし、歌を重ねた。主題の核心へ触れるように、心の中の記憶を一本の糸にして繋ぎ止める。だが歌うほど、胸の中の言葉が抜け落ちる。線香の匂い、祖母の笑い、ラジカセの年季――そうした些末は少しずつ消え、代わりに夢の砂が口の中に溜まっていく。

夢の深みで残響体が動いた。黒い塊が蠢き、誰かの悲鳴を模した声を吐いた。そこに、硝の叫びが混じる。現実では彼が倉庫の入口で倒れていたのだ。突入してきた連合の傭兵の刃が彼の側をかすめ、血臭が実際の空気に混じっている。夢と現実が同期した瞬間、天音は硝の痛みを全身で受け止めた。

「硝!」彼女は歌を一節、強く唸った。波形が夢の中で光を帯び、残響の輪郭を一瞬縛り上げた。その隙に彼女は硝の姿を見つけた。彼は床に崩れ、肩から血が滴っている。顔は色を失い、まぶたがぴくりと動く。彼の胸の鼓動は頼りなく、現実の時間は容赦なく過ぎていく。天音は涙が枯れるほど泣きながら、自分の声を紡いだ。

だが代償は確実だった。歌の一節が終わるたびに、彼女の中の何かが凍りついていく。最初は細かい記憶、次に言葉の端っこ。硝の名前を呼ぶ音が、砂のように崩れ落ちる。喉の奥が空洞になり、肺の中に空気だけが残ったようだった。

「戻れ!」硝の擦れる音が、遠くで聞こえた。硝は現実で、血のにじむ手でラジカセのスイッチを押し、指先で擦るような音を作っていた。蓮見が言っていた帰還の鍵は、ここにある。天音は必死にその音を夢の中で探し、手を伸ばす。擦れる音は彼女の耳に触れ、糸となって喉元を引き戻した。

その瞬間、夢の世界の時間が鋭く収縮した。残響体の姿が歪み、ひびが入る。天音は硝の体を抱えあげるようにして、夢の中で彼をぐっと引き寄せた。現実の硝は荒い息をし、口から泡が漏れる。連合の傭兵が叫び、蓮見とココロが物理的に装置へ飛び込んでいた。真白は内部で配線を引きちぎり、位相の反転を手伝っている。

だがその時、天音の歌は最後の鍵を失った。主題の核心を確認するために使っていた断片が、夢のどこかで裂かれてしまった。彼女は最後の一節を口にしようとしたが、その言葉が喉で崩れて、音にならない。頭の中が急速に白くなる。言葉を思い出そうとしても、言葉は指のすり抜ける砂のように