夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第8話「第7章」

蔵の中はいつもより機械油と線香の匂いが濃かった。夜の湿度が木箱の隙間から染み込み、古いテープの端がほんのり光る。硝は古びたラジカセの内蓋を外し、指先で磁気テープの跡を辿った。金属の冷たさ、ハンダの匂い、そしてどこかに残る人の息——それらが彼にとっての地図になっている。

蔵の中はいつもより機械油と線香の匂いが濃かった。夜の湿度が木箱の隙間から染み込み、古いテープの端がほんのり光る。硝は古びたラジカセの内蓋を外し、指先で磁気テープの跡を辿った。金属の冷たさ、ハンダの匂い、そしてどこかに残る人の息——それらが彼にとっての地図になっている。

「ここが位相調整の核心だ。ここのコイルをちょっと巻き直すと、再生の位相が変わる。遠隔で入力を重ねられるはずだ」

硝の声は震えていなかった。けれど手はわずかに震えていた。天音はその手元を見つめ、蔵の隅に置かれた小さな茶碗を掴む。湯気は白く、彼女の息に馴染んで消えた。

「それで、短時間だけ夢に入れるってこと?」蓮見は端末のディスプレイを覗き込みながら言った。画面には波形の密集した断面図が揺れている。周期的なビープの痕跡が増幅され、細かい山谷を描いていた。

「実験的だ」硝が答える。「通常は一夜限りのカセットの作用を、その位相操作で短く切れるか試す。戻りのためのアンカーは強化する。擦れる音の位相をトリガーにして、引き戻す瞬間だけ結合を強める。だけど……」彼は言葉を切った。

天音は蓮見と硝の言葉の端々に代償を思い出した。祖母の戒め、封じ歌の話。歌の主題を忘れることの恐ろしさ。能力の条件と禁止が、今この場で重くのしかかる。自分の夢に入ることはできない。誰かの夢に入るのは、一本のカセットにつき一夜だけ。連続使用は禁忌だ——だが今夜は禁忌とは別の危険があった。仮の、偽の主題を歌うことは、戻りにくさを加速させる可能性がある。

「被験者は用意してあるのか?」天音は訊ねた。声がまだかすれていた。朝の事件の余波が喉の影を残している。

「協力してくれる人がいる」ココロが後ろから差し入れの袋を置きながら答えた。彼女は地下テープショップの店主らしく、いつもより飄々としていたが、目は鋭かった。「市の保護シェルターから。安堵を求めている若い人だ。眠りは深い。薬は使ってないって約束してもらった」

硝は頷くと、改造したラジカセを天音の前に差し出した。外側は手垢で光り、内側は機械の匂いが充満している。擦れる音を発生させる小さなピックが内蔵され、それを硝が細く弾くと、カセットテープに指をこするような音がハムとして乗った。彼は指先で位相ノブを慎重に回す。

「帰還のタイミングは俺が決める。お前は短く入って、何かを確かめるだけ。偽主題で連合の目をそらす。もし連合側がそれを拾えば、彼らはそっちへ手を伸ばすはずだ」蓮見が言った。彼の声には理論の冷たさと、過去の痛みが混じっていた。「ただし、偽主題は本物に似せるほど危険だ。本物を近づけると、主題の境界が曖昧になってお前の記憶を食う。時間を計る。戻るための擦れ音は硝が鳴らす。俺が数値を監視する」

天音は息を吐いた。胸の奥にまだ穴が残っているような感触がする。先週の夜、彼女は言葉を半分失いかけた。あの冷たい引き裂きは、もう二度と味わいたくなかった。だが封じ歌の断片を奪った者が動き出したことは現実で――そしてそれは連合の計画の一端だ。受け身でいることは許されない。

「私がやる」彼女は決めたように言った。「短く。偽主題は私が組む。被験者には事前説明する。連合に引っかかるなら、次は私たちから仕掛けてやる。硝、戻すときはためらわないで」

硝の目が一瞬強く光る。「わかった」

準備は速かった。ココロは被験者の居場所を確かめ、蓮見は端末の入力に注意深く数字を打ち込む。真白は影のように遅れて現れ、彼女の瞳はいつも通り冷たい光を放っていた。彼女は天音に近づき、小さな紙片を差し出した。その紙片には短いフレーズが走り書きされていて、真白はそれを口元で確かめるようにして囁いた。

「これが私のやり方の断片。忘却を阻むためのリズムだ。使うつもりなら、少し合わせるといい」真白の声は低く、どこか毅然としていた。対立しているはずの真白の手が、今は助けのように見えた。

天音は紙を受け取り、指先で触れた。真白のフレーズは自分の歌の拍子と微かに食い違っていた。別の技法。競合相手が示す補完。それが何を意味するか、天音はすぐに察した。真白は敵でありながら、同時に救いのヒントを握る存在だった。だが今はそれを咀嚼する時間はない。

被験者は小さなリネンに包まれた毛布の上で、安らかな寝息を立てている。彼の胸が上下するたび、呼吸のリズムが蔵の木床に小さな影を落とした。天音はカセットに自分の声を吹き込み、偽主題を短く織り上げる。音は汗のにおいと混じり、テープの溝にへばりつくようにして沈んだ。

「覚えておけ、条件は守る」蓮見は最後に言った。「自分の夢には入れない。同じ夢者に連続で使うな。主題を本物に近づけすぎるな。忘却が始まったら、即座に引き戻すこと」

硝はラジカセを被験者の近くに置き、位相ノブをゼロに合わせる。彼の手が震え、指先が擦れる。擦れる音が小さな蜘蛛の細い糸のように生成され、空気に溶ける。天音は深く息を吸い、歌い出した。声はか細く、けれども確かにテープに乗った。偽主題は本物の輪郭をなぞりつつ、小さな違和感を残している。それが罠であり、誘導の鍵でもある。

再生が始まると、世界は砂のように崩れた。天音は夢へと滑り込み、被験者の深い眠りの中に立った。闇が音を飲み込み、そこには見知らぬ町の通りが広がっていた。偽主題は風に乗り、遠くの看板の文字を揺らした。誰かの影がそれを拾い、指先で引き裂こうとする。声が来た。優しい、けれど貪欲な声だった。「それをくれ。完全にくれ」

天音は歌を押し進め、主題を小槌で叩くように刻む。だが同時に胸の中が冷たくなり、言葉の縁が削れていくのを感じた。偽主題は連合への餌だが、自分の主題の膜も薄くする。戻りたい。硝の擦れる音が、まだ微かに耳の端で鳴っている。彼の位相はまだ接続されている。天音は歌を終え、引き返す準備をする。

だが今日は違った。夢の中で何かが反応した。被験者の夢に潜んでいたのは、単なる空虚な欲ではなく、余響の残滓が組織的に紡がれた痕跡だった。それは偽主題を掴み、そこから裂片を剥ぎ取ろうとした。剥ぎ取られると、天音は喉元に小石が詰まったように言葉を失った。舌先の感覚が鈍り、幼い日の匂いの一つが突如として抜け落ちる。楽しかった午後の光景、祖母が編んでくれた毛糸の記憶の一片——それらが紙で切られたように欠けた。

「硝、今だ!」蓮見が叫んだ。端末の数値が赤く点滅する。硝は位相ノブを一気に回し、擦れる音を最大の位相で鳴らした。音は床を伝わり、蔵の梁に反射して倍音になった。その倍音が夢と現実の膜を震わせる。天音はそれに掴まり、ゆっくりと浮かび上がった。意識の端から世界が差し込む。彼女の体が現実へ戻るにつれ、胸にぽっかりと空いた穴の輪郭がなおざりに浮かんだ。

戻った瞬間、天音は息が詰まり、口から嗚咽が漏れた。喉は乾き、言葉がほとんど出ない。硝はすぐに彼女を抱き起こし、ラジカセを耳元へ押し当てた。擦れる音がまだそこにあり、小さな針のように彼女の意識を撫でる。蓮見は手早く端末を確認し、波形の断面を保存した。

「位相が触れて、向こうの反応が出た。周期ビープが残響と干渉している」蓮見の声は落ち着いていたが、眉間に深い皺が寄って