夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第7話「第6章」

夜の地下市場は、昼間の顔を消して別の時間帯に変わっていた。紙袋を開けば線香の匂いが混じった古いプラスティックと、湿ったダンボールの匂いが立ちのぼる。路地に沿って並んだ屋台の間を、蛍光灯の冷たい光が細く分け入る。天音はコートの襟を立て、硝の肩越しにその光の筋を見つめた。足元で、硝が小さなラジカセをぎゅっと抱えている。改造した機構は、ただ音を出すだけではなく「擦れる音」を精密な位相で出力できるようにしてあった。硝がそれを持ち歩く理由を、天音は改めて肝に銘じていた。あの音は、彼女を現実へ引き戻すための唯一の手掛かりなのだ。

夜の地下市場は、昼間の顔を消して別の時間帯に変わっていた。紙袋を開けば線香の匂いが混じった古いプラスティックと、湿ったダンボールの匂いが立ちのぼる。路地に沿って並んだ屋台の間を、蛍光灯の冷たい光が細く分け入る。天音はコートの襟を立て、硝の肩越しにその光の筋を見つめた。足元で、硝が小さなラジカセをぎゅっと抱えている。改造した機構は、ただ音を出すだけではなく「擦れる音」を精密な位相で出力できるようにしてあった。硝がそれを持ち歩く理由を、天音は改めて肝に銘じていた。あの音は、彼女を現実へ引き戻すための唯一の手掛かりなのだ。

「情報はココロからだ。あそこの一角に、古いテープを小分けにして売る連中がいるらしい」蓮見の声は周囲のざわつきに溶け込むようにして低かった。彼は小さな解析機を手にしていて、背後の屋台の波形を端末に映している。端末の画面は濃い緑色の波形で埋まり、ある波形の隙間に規則的なビープが刻まれているのを、天音は見た。あの周期だ。蔵で見つけたラベルと、ココロが見せた短尺テープにあった周期的なビープ。蓮見は顔を硬くした。

「これがあるなら、ただの盗品ではない。識別子だ。誰かが意図的に断片を集めている」

ココロは体を被せるようにして天音に近づいた。店での明るさはもう無く、彼女の目だけが暗闇に浮かんだ。手には、小さな紙片が入った封筒がある。中には、白い紙の端がチラリと折れているのが見えた。天音の心臓が跳ねる。あの譜面の一行――蔵の譜面に刻まれていた文字の断片だ。

「これを拾ったのは、取り引き先の一人だって。昼間のその辺りで、誰かが落とした。だが流通してるのはもっと悪い。複数の短尺テープに同じマーカーが入ってるっていう。市の外れで、組織的にやってるらしい」ココロの言葉は皮肉にも優しかった。彼女の店がこの街の地下の情報網の根幹だという自負が、その口調に滲んでいた。

天音は封筒に触れた。紙の端に残ったインクはわずかに擦れており、上から誰かが指で撫でたような痕が残っている。だがそれだけで、確かなことが十全に分かるわけではなかった。譜面の一行が剥がされた紙の断片は、それ自体が「誰かに必要とされている」証拠であり、誰かに握られれば、どこへ向かうか分からない。胸の奥に冷たいものが落ちるのを天音は感じた。

「追うべきだ」硝が言った。声は、いつもより堅かった。「ここで情報を食い物にされるのは許せない。あの譜面がどう使われるか、考えただけで――」

だが蓮見は首を振った。「追うのはいいが、天音を前線に立たせるわけにはいかない。代償があることを忘れるな。忘却は積み重なる。君が今どれほど削れているか、我々は見ている」

硝が天音の手を取る。彼の掌は冷たく、包帯の跡が縁に白く残っている。天音は微笑もうとするが、唇は震えた。今日の選択は、ただの争奪戦以上の意味を持っていた。封じ歌の断片を追えば、誰かがその欠片を使って更に大きなことを試みる前に阻止できるかもしれない。だが追うための介入は、また新しい忘却を招く可能性がある。

「いい。私が行く」天音の声は小さく、しかし確信がこもっていた。「私にしか分からないことがある。夢の匂いの違いとか、テープの擦り具合とか……直接確かめたい」

真白の影が、周囲の屋台の列の中にちらりと見えた。彼女は黒いフードを深く被り、表情は読み取りにくい。だがその姿は天音の視界を通り抜け、硝の横で止まった。真白は静かに手を上げ、声を出した。

「止めはしない。ただし、やり方は違う。私に情報がある。だが近付けば危険だ。覚悟しろ」

真白のひと言には、厳しさと、それ以上に不穏な温度が含まれていた。天音は彼女の目を見ると、試されているような気がした。断片を取り戻すためなら、彼女は自分を賭けるつもりであった。

市場の一角にたどり着くと、そこは小さな密室のようだった。テープが並ぶ棚の隙間、古いウォークマンの皮の匂い、そして誰かが座って茶を飲むような低い話し声。店主は目線を上げることもなく、手慣れた動作で次の客に短尺テープを差し出した。ラベルの裏、静寂の帯の中に、規則的なビープが確かに刻まれている。天音は息を飲む。蓮見の端末がピンと反応し、低いトーンを発した。

「ここだ。ここで回してる」蓮見はささやく。だが同時に、屋台の奥から別の声が上がった。金属的で、薄ら笑いじみた声が「醒夢」の二字を吐いたのを、天音は確かに聞いた。市場の音がその単語を境に少しだけ凍ったように感じられた。

天音の胸が板のように固くなる。醒夢連合──その名は、この街の地下で噂されていた。しかし、実際に誰かの口から聞くのは別の重さがあった。誰かが組織として名乗るということは、目的を持ち、手段を用意しているということだ。彼らが何を目論んでいるのか、その一点だけでも阻止しなければならない。

店主の手元を見ていたとき、突如として奥の暗がりで動きが起きた。若い男が、隠しテーブルの下から小さなカセットを取り出し、手の中で転がしている。ラベルは剥がれかけ、紙が千切れた部分に透明なテープが貼られていた。天音は動き、同時に硝が短く咳払いをした。彼のラジカセが、無意識のうちに擦れる音を小さく吐き出す。擦れる音は、天音にとっては安定剤のように働いた。現実の輪郭が一本細い糸で繋ぎ止められる。

だが事態は思いのほか早く動いた。若い男がカセットをポケットに突っ込み、急に立ち上がると、周囲の空気が張り詰める。店主と男が言葉を交わし、男は荷物をまとめて出て行こうとした。その瞬間、屋台の端で小競り合いが始まる。誰かが短尺テープを乱暴に掴んだ。言葉が飛び交い、腕が伸びる。

「取るな!」天音は思わず叫んでいた。叫び声は小さな嵐のようにあたりをかき乱し、男はその隙に走り去ろうとした。硝が彼を追おうとするが、蓮見が制止した。「捕まえに行けば、全てがばれる。ここは引き上げるんだ」

逃げる男の背中に、天音は目を凝らす。ポケットから覗いたラベルの欠片が、蔵で見た譜面の一行と似ていた。震えが指先から全身へと広がる。彼女は無意識に、懐からカセットを取り出していた。今ここで追うべきか、否か。追えば追うほど、彼女は夢へ深く留まる危険を自ら招く。

「私が入る」天音は即断した。声は冷たく、迷いが無かった。「どこで再生されるか、誰に渡されるかを確かめる。奪取する方法は後で考える。今は情報だ」

硝の顔が白くなる。「危ない。連荘使用の禁止は、覚えてるか?」

天音はうなずいた。同じ夢の人間に連続して歌を使うことはできない。だが今は、現場で再生されるテープを一夜で止めることの方が重要だと彼女は判断した。相手は組織であり、封じ歌の欠片を複数にばらして流通させていた可能性がある。情報を失えば、次に誰かが再生する際にはもっと大きな被害が出るかもしれない。

「硝、アンカーは頼む。もし戻りが遅れたら、強制的に引っ張って。擦れる音をループして鳴らして」

硝はためらいながらも、小さく頷いた。彼はラジカセのチューニングダイヤルを回し、微妙に擦れる音の位相を合わせる。蓮見が端末を息で吹き、波形を安定させる。ココロは外へ出て、逃げた男の足取りを追う。

天音はカセットを手の中で温めるように握り、いつも