夢見るカセットの歌手 第6話「第5章」
朝刊が台所のテーブルで震えていた。見出しはざわつく小さな文字で「夢に介入、人格変容の報告」と打たれ、写真にはぼんやりとした顔が並んでいる。天音はその紙面に指先を触れながら、ページの隅に張り付いた線香の灰の匂いを深く吸い込んだ。祖母の家の蔵は朝の湿気と古い磁気テープの匂いで満ちている。テープの端を手で撫でると、たまに針でつくような痛みが指先に残る。硝が改造中のラジカセを抱えて蔵の戸口に立っていた。彼の髪には前夜の工房の匂いと、紙やすりの粉の匂いが混ざっている。
朝刊が台所のテーブルで震えていた。見出しはざわつく小さな文字で「夢に介入、人格変容の報告」と打たれ、写真にはぼんやりとした顔が並んでいる。天音はその紙面に指先を触れながら、ページの隅に張り付いた線香の灰の匂いを深く吸い込んだ。祖母の家の蔵は朝の湿気と古い磁気テープの匂いで満ちている。テープの端を手で撫でると、たまに針でつくような痛みが指先に残る。硝が改造中のラジカセを抱えて蔵の戸口に立っていた。彼の髪には前夜の工房の匂いと、紙やすりの粉の匂いが混ざっている。
「ニュース、見たか?」硝が無造作にページをつまみ上げる。彼の声はいつものように低く確かだが、そこで天音は世界がほんの少しだけ変わったのを感じた。ココロからの連絡も昨夜あった。地下テープの流通で「夢を商品にする」動きが活発化している、という噂が具体的な被害報告になって公に出たらしい。ココロはいつも以上に興奮し、かつ憂えて見えた。
蔵の戸を閉める手を一瞬止め、天音は昨日の夜に失くした遊び場の匂いの輪郭を探した。まだ完全には戻らない。だが記憶の痛みを指で押し戻すように、彼女は深呼吸をして自分を落ち着けた。今日の依頼は市役所の福祉課からだ。匿名の申し出で、夢の中で疎遠になった母子の溝を埋められないかと市の相談員が問うてきたという。具体的な住所と、録音機が一台。蓮見は昨夜、譜面の一行に関して古文書を当たると言っていた。ココロは裏通りで「警告」と「依頼」が混ざった手紙を受け取り、天音に渡しに来た。
「依頼者は少し、切羽詰まっているみたいだよ」ココロが紙片を差し出す。懐中電灯とインクの匂い、そこに混じるカフェインの匂いがココロを動かしている。短いメモの余白には「男の子、七歳。母親は深い眠り。『夢の中で会いたい』と書かれている」とだけある。天音はその一行を読み、胸がぎゅっと締め付けられた。七歳。自分の歌が誰かの子どもの夜を変えるかもしれない。だが同時に、歌の主題を深くするほど忘却の代償が増す。それは祖母の戒めが胸に打ち込んだ釘のように痛かった。
硝はラジカセの裏蓋を閉めながら言った。「眠りの深さで影響範囲が変わる。相手が浅ければ時間も短い。ママの眠りがどれくらい深いかだ。もし浅ければ、部分的な手当てで済ませるべきだと思う。お前が全部抱え込む必要はない」
天音は硝の目を見た。硝のまなざしはいつもどこか現実的で、彼の手は確実に機械を直すことができる。それだけで、彼は天音を今も地につなぎ止めてくれるアンカーなのだと、彼女は改めて確信した。だが今回は自分一人で決めるべき場面でもある。依頼は善意だ。だが「善意=深掘り」とは限らない。彼女は封じ歌の仕組みと代償を知っている。主題を忘れたら帰れない――あの言葉が胸の奥で再び鳴った。
午后、天音は男の子、陽斗(はると)の家のドアを静かにノックした。薄い木目の扉は古く、触れると指先に木の年輪が伝わる。玄関に入った途端、家の空気に漂う湿った洗濯物の匂いと、古い絵本の紙の匂いが混ざった。陽斗は小さな体で座っており、目は少し赤く腫れていた。母親の姿は一緒に暮らす祖母だと名乗ったが、家の奥の寝室の戸はずっと閉じられたままだという。
「お母さん、夜中に起きて泣いているんです。でも朝になると何も覚えていないって……」祖母の声には疲労と申し訳なさが滲んでいた。天音はその声を聞きながら、彼女が抱える事情が単純ではないことを察した。市場の報道が示すように、夢介入が娯楽目的で使われたケースは増えている。景気のいい言葉で「癒し」を謳う者たちが、無自覚のうちに人々の記憶を削ってしまう。天音はメモ帳に視線を落とし、必要最低限の情報だけを訊ねた。眠りの癖、最近の夢の断片、陽斗が語る「最後に覚えている母の姿」。彼女はその間、胸の中で主題の核心を何度も繰り返した。忘れてはならない。忘れたら帰れない。
夜、天音は小さなラジカセを抱えて陽斗の家の寝室の隣、廊下の端に腰を下ろした。硝が作った簡易アンカーが道具箱から渡され、それを胸に当てると指先に馴染む暖かさが伝わる。硝が作った「擦れる音」は帰還のための手掛かりとなる。一度目を閉じる前に、天音は硝の声と約束を交わした。「浅く、確実に。母さんが自分で見つけられる導火線を残す。私が全部消化しない」硝は頷いた。工具の匂いと皮脂の匂いが彼の手の匂いを作る。天音はそれを胸に焼き付けるように息を吸った。
テープに吹き込む歌は、いつものように決して長くはしない。主題の核を数行で提示し、あとは相手の夢が織り直す余地を残す。天音は自分の声をテープに落としながら、譜面の一行をまるで祈りのように繰り返した。その一行は蔵の譜面とどこかで共鳴する。磁気のざわめきは指先に小さく震えをくれる。再生は陽斗が眠りに落ちてからのこと。眠りが深ければ時間は伸びるが、それは同時に彼女の留まる時間も長くなる。だから今回は陽斗の眠りを誘う工夫をした。昔ながらの子守唄と手巻きのラジオの温かいホワイトノイズを重ね、眠りに落ちやすい環境を作る。硝が廊下で静かにラジカセを鳴らした。擦れる音が、薄いガスケットのように空気に溶ける。
陽斗はやがて深い呼吸に入った。天音はテープを回し、古いセピア色の音を放った。夢に入る感覚はいつも独特だ。ラジカセのボリュームを合わせるたびに現実と夢の境界が薄れていく。今回は母のことだけを中心に据えた短い夢を選んだ。子どもは深層で母親の姿を「守る存在」としてのみ覚えていればいい。天音はその一点を歌の主題にして、無理に事実を書き換えないように気をつけた。母親が抱いた過去の後悔や喪失は消えない。だが彼女が朝、母の手が懐かしいと感じるための「導火線」は置けるかもしれない。
夢の中では、光が紙のページのように柔らかく折り畳まれていた。陽斗の記憶は断片化していて、母の顔はいつも少し霞んでいる。天音は主題を歌いながら、その霞に指を入れてほぐす。母の髪に混じった線香の匂い、古い洗濯粉の匂い、向かいのビルの屋上で沸く湯気の形──そんな日常の小さな手触りを一つずつ拾い直す。だが夢の端に、薄い影が蠢くのを感じた。それは前に見た残響の兆候に似ていた。形ははっきりしない。まるで誰かの忘れられた言葉が黒い紙片のように夢の隅で踊っている。天音は一瞬胸が冷たくなるのを覚えた。
「浅く、確実に」硝の声が夢の中まで届いたような気がして、自分を押し戻した。深く掘りすぎると主題を消費してしまう。彼女は歌の収束を早め、陽斗自身が夢の中で母の手の温度を探すための合図を残した。指が触れた場所に、彼は母の指紋の記憶を思い出す。夢からの帰路で、天音は主題を何度も胸で反芻した。主題が揺らいではいないか。忘れたら帰れない。祖母の戒めが再び遠くで響いた。
朝、陽斗は母の起きる前に台所に立っていた。彼は震える手で小さな湯を注ぎながら、ふと母の座る場所を拭いた。祖母がそれを見て、涙を堪えながら笑った。「今朝は私の名前を呼んで、手を取ったのよ」陽斗は自分の中に新しい記憶の導火線が生まれたと誇らしげに言った。だがその夜、天音は小さな欠落を感じた。言葉の端っこで何かが切れている。先週、硝と缶詰のラベルについて笑いあった細かいエピソードがすっと抜け落ちた。日常の小さな舌