夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第5話「第4章」

夜の空気が、千尋の街の屋根をゆっくりと冷ましていく。路地にはラジオの微かなハム音と古いテープの匂いが層をなして溜まり、遠くの銭湯の湯気が石畳に白い膜を張る。天音は祖母の蔵で見つけた布をそっと取り、先ほど回収した短尺テープを丁寧に包んだ。ココロにもらった紙片を胸のポケットに入れ、硝が改造を終えたラジカセを抱えて、老画家・芳村(よしむら)のアパートへ向かう。

夜の空気が、千尋の街の屋根をゆっくりと冷ましていく。路地にはラジオの微かなハム音と古いテープの匂いが層をなして溜まり、遠くの銭湯の湯気が石畳に白い膜を張る。天音は祖母の蔵で見つけた布をそっと取り、先ほど回収した短尺テープを丁寧に包んだ。ココロにもらった紙片を胸のポケットに入れ、硝が改造を終えたラジカセを抱えて、老画家・芳村(よしむら)のアパートへ向かう。

芳村は町の外れにある小さなアトリエ兼住居で、扉のノブには絵の具の痕がべっとりと付いている。廊下を抜けると、乾いた油彩の匂いに混じって線香の残り香が漂った。天音は鞄を降ろし、硝と蓮見に手短に耳打ちする。「深くは行かない。裂け目を埋める糸だけ渡すつもり。彼の眠りは深いって聞いたから、気を付ける」硝は改造したラジカセのカセットドアを何度も押し、蓮見は薄暗い照明の下で譜面の断片を指でなぞる。ココロがくれた短尺テープの包装はまだ温かく、指先に古い磁気のざらつきが伝わる。

「彼の手は震えていた。色を失ったって言ったんだよね」硝が小さく言う。天音は頷きながら、祖母の言葉を思い出した。忘れることは戻れないこと。封じ歌の戒めは重く、しかし眼前の空虚はもっと重かった。

ラジカセの赤いランプが点る。天音は今日の主題を確かめた。短い言葉を胸の奥で繰り返す。今回は「蒼(あお)」。色の名を一語に還元することで、老画家の失われた色彩感覚の輪郭を渡そうと決めた。歌には主題がある。主題が消えれば帰れなくなる——その制約を天音は舌の裏で念押しするようにかみしめた。

夢へ滑り込むと、芳村の夢は灰色のキャンバスが無数に並ぶ倉庫だった。空気は油煙に満ち、筆の動きだけが音を持っていた。だが、そこに置かれた一枚のキャンバスだけがまったく色を失っている。色が抜け落ち、淡い輪郭だけが残されていた。芳村はその前に座り、指先で空気を切るようにして色を探している。胸の奥から何かが欠けて、彼の世界は輪郭だけの迷路になっていた。

天音は歌い始める。息を吐き、言葉を一語ずつ灯すように並べる。蒼、蒼、蒼。音は磁気テープのざわめきと溶け合い、夢の水面に小さな波紋を描いた。最初は薄氷のようにしか作用しなかった。夢の粘度は高く、色は簡単に戻らない。しかし天音は、譜面の断片に書かれていた短い一行を思い出した。その行は、蔵の奥で見つけた譜面の一節と音の並びが似通っていた。胸の中でそれが反復されると、夢の中でわずかに振幅が変わるのを感じた——譜面の行が、別の時代の歌の断片と響き合ったのだ。

「……それ、どこで聞いた?」彼女の歌に合わせるように、夢の端で芳村の子供時代の声が震えた。色彩の記憶は、視覚だけではなく匂いと音と手の動きでできている。天音は色の名称だけでなく、その前にあった「光の位置」と「筆先の重み」を言葉にしていった。彼女の歌は主題を軸にして枝葉をそっと添える。深く掘り下げず、しかし確実に回路を辿るように。

夢の縁に、小さな擦れる音が混じる。それは硝のラジカセに残された古い録音の指擦れと同じパターンだった。天音は驚きながらも、その音を拾って歌のリズムに組み込む。擦れる音が指がキャンバスに触れる瞬間の「手掛かり」となり、芳村は目を細め、右手をゆっくりと動かした。淡かった線に藍のあとが、そして群青の痕がにじみ、キャンバスは少しずつ色味を取り戻していく。天音の声は消え入りそうになるが、彼女は主題を確かに握り続けた。

だが夢は浅い。芳村の眠りの浅さゆえ、色は戻るが脆く、すぐに溶けてしまう思われた。天音はもう一度だけ強く押し付けようとした瞬間、夢の空気が何か鈍い刃物で切られたように冷たくなった。言葉の輪郭がぼやける。胸の中の言語の糸が、少しずつほどかれていくのを感じる。祖母の戒めの声が耳に刺さる。「忘れてはいけない。忘れたら、帰れない」

天音は手を止めた。これ以上深く入れば、主題の一端を失うリスクが高まる。芳村の色を完全に戻すことはできないかもしれない。だが彼がもう一本の線を自分の手で引けるように、彼女は歌をそっと折り畳む。裂け目は完全に塞がらなかったが、キャンバスの片隅に確かな色の波が現れる。芳村は半ば夢の中で涙を流し、画布に向かって震える筆先を置く。彼の指先に、色を探すための小さな記憶の導火線が灯ったのだ。

帰還はいつも微妙だ。天音は自分の胸に曲の主題が残っているのを確かめながら、夢の縁で硝の擦れる音を反芻した。現実に戻ると、芳村は翌朝、アトリエで久しぶりに絵筆を握っていた。動きはぎこちないが、確かに青を載せた。隣に座る息子の顔は泣いていた。「見つけたんだよ。あの色が、少しだけ戻った」息子が天音に言ったとき、天音は胸の奥で何かが抜け落ちるのを感じた。

それは匂いだった。幼い頃、駆け回った公園の滑り台の油の匂い、砂場に混じった運動靴の匂い、夏の終わりの草の焦げるような匂い——その細部が、ふっと遠ざかった。文章で説明できるほど大事なものではない。だが、匂いは記憶の皮膚のように身体に貼りついていた。天音は手のひらを胸に当て、欠けた場所を確かめる。言葉にすれば「遊び場の匂い」としか呼べないものが、彼女の中でほの暗く消えていった。

硝にはすぐに告げた。二人は蔵の隅でラジカセの裏蓋を外し、指先で回路を確かめる。硝は目を伏せながら言葉を選んだ。「代償が来たか……でも、大丈夫だ。改造しよう。帰還をもっと安定させられるように、擦れる音をトリガーとして使う。指の擦れを録音して、帰るための“手掛かり”を意図的に作るんだ」彼は既に工具を取り出していた。硝の手つきはいつも落ち着いていて、その手元を見ていると天音は不意に安心を取り戻す。硝が現実のアンカーであるということを、彼女は改めて噛みしめた。

蓮見には夢の中で聞いた断片的な旋律について報告した。蓮見は細い眉を寄せ、譜面の一行を再び取り出した。「あの行、蔵の譜面に書かれていた一行と似ている。完全には一致しないけれど、音の寄せ方が鏡写しだ。君が夢で口ずさんだ旋律と、譜面の一行が相互に強め合っている可能性がある。もっと調べよう」蓮見の声は学者の静けさで、同時に何かを掘り起こす興奮が混じっていた。その目の奥に、過去の断片をめくりあげる欲望が明滅する。

ココロは地下ネットワークから拾った情報を持ってきた。「短尺テープの一部には周期的なビープが混じっているって話、あれは本当らしいよ。識別子として使ってる連中がいる。もし封じ歌と同じリズムを持つテープがあれば、誰かがそれを意図して集めてるってことになる」ココロの喉の奥には、地下世界の匂いと愛すべき好奇心が混ざっていた。天音は包んだテープをもう一度胸に当てる。磁気のざわめきが指先に残る。

夜、蔵に戻ると、祖母の古い譜面の一行がまた目に入った。紙の端が焼け、インクがかすれている。ラベルの片側が半ば剥がれていた。誰かが手を触れた跡かもしれない——指紋は時として、磁気と同じように物語を伝える。天音の手は自然とその剥がれかけたラベルに触れた。冷たい紙の縁に、胸の奥の空洞がひとまわりだけ広がるのを感じた。

「忘れないで」祖母の言葉が再び針のように刺さる。だが天音は、昨日とは違う心持ちでその戒めを受け止めていた。守るべきはただの