夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第4話「第3章」

ココロの店は、午後の光を薄く濾したガラス越しに、古いテープの匂いを吐いていた。日焼けしたラベルの縁がもろく、棚の木板は指の脂で光る。天音(あまね)は店先で立ち止まり、手首のあたりに残る祖母の蔵の埃の匂いと、この店の混じった匂いを吸い込んだ。ラジカセのプラスチックのぬくもり、リールの回る軽い引力。千尋の街の午後はいつも、こんな小さな機械の息づかいで出来ている。

ココロの店は、午後の光を薄く濾したガラス越しに、古いテープの匂いを吐いていた。日焼けしたラベルの縁がもろく、棚の木板は指の脂で光る。天音(あまね)は店先で立ち止まり、手首のあたりに残る祖母の蔵の埃の匂いと、この店の混じった匂いを吸い込んだ。ラジカセのプラスチックのぬくもり、リールの回る軽い引力。千尋の街の午後はいつも、こんな小さな機械の息づかいで出来ている。

「おかえり、天音ちゃん」ココロは奥からひょっこり顔を出し、両手に山のようなビニール袋を抱えていた。その手つきは相変わらず忙しく、かつて地下ショップと呼ばれた場所の名残が走る。店内には、さまざまな大きさのラジカセと透明なテープケースが整列していて、どれも誰かの耳を寝かせた記憶を抱えていた。

「見て、これ」ココロが袋から取り出したのは、短く切られたカセットだった。通常のテープよりも二周りほど小さく、ラベルは手書きで潰れた字が走っている。テープの磁気は劣化して、端の方が少し光っていた。

「地下のあちこちで配られてるって、噂があるんだ。『夜遊び用』って言われてるやつね。数分刻みで夢の快楽を売るって……有り得る?」ココロは舌を軽く噛んで、眉を寄せた。彼女の店はこの街の“情報の胃袋”である。噂はここで消化され、必要なときに吐き出される。

天音は手にとってラベルを覗き込んだ。文字列の端に、見覚えのある小さな刻印がある。祖母の蔵で見た譜面の断片の端と、くっきりとした線が似ていた。指先が冷たくなった。祖母の声が、どこかで針のように響く。「主題は短く、明瞭に。だが、誰かが探すべきものでもあるのよ」

「それ、回収してくれない?」ココロの声は低い。店の片隅で、客らしい若い男が目を泳がせている。ココロはその視線を気にするように、テープをポケットに押し込んだ。「配り手はもっといるし、売り場もある。あんたの歌で、少しでも被害を減らせないかと思って」

「でも、これ——」天音は躊躇した。能力の条件が脳裏で鐘を鳴らす。カセットに歌を吹き込み、再生時に眠った人の夢へ入ること。だが一巻は一夜のみ有効。深く歌えば代償は大きく、主題を忘れれば帰れない。短尺テープは“複数回の刺激”を与える設計だと聞いている。娯楽を越えて、傷を作る可能性がある。

「ほら、あの子だよ」ココロが指差すと、店の入口の方で小柄な女子が腕を組み、震えるように立っていた。彼女は夜のパーティーの残り香を纏い、目元は赤く腫れている。名前を尋ねると、瑞希(みずき)という二十歳前後の子だった。友人に勧められて“短い夢”を試したら、夜の断片が裂けて戻せなくなったという。朝になると、胸の穴がぽっかり開いたようで、自分がした言葉を覚えていない。音楽をやっていたわけでもないが、夢の中で大事な一節を誰かに奪われた感覚がある、と。

天音は瑞希の手を取ってみた。肌は生温かく、でもその手が掴む現実は薄い。守る対象の一覧に名を刻むような直感が胸を刺した。だが同時に、禁忌が重くのしかかる。自分の夢に入ることはできない。連続して同じ相手に歌を使うことは禁じられている。短尺テープは複数回の刺激を再生する設計なのかもしれない。被害者がまた同じテープで深く夢へ誘われれば、残響が生まれる。残響は夢に居座り現実を蝕む。

「私は、そのテープを回収したい」天音は静かに言った。「でも、完全に深くは掘らない。君が自分で埋め直せるように、欠けた部分の“引き手”を渡すだけ。あなたが同意してくれるなら、私は一晩だけ——」

瑞希は俯いてから、震える声で頷いた。天音はココロに向き直り、袋の中から短尺テープを取り出した。表面の磁気の線が、薄く光る。ココロは財布から小さな布を取り、テープを丁寧に包んだ。地下の流通図を見せる代わりに、彼女は天音に小さな紙切れを渡した。そこには配り先の名前、夜市の複数の屋台、路地裏の自販機の位置が鉛筆でメモされていた。

「これを辿れば、出所がわかる。だけど、気をつけて。ショートテープの波形には、周期的なビープが隠されているって話よ。識別子ってやつ。もし連中が監視しているなら、それを手掛かりに拡散してくるだろうし」ココロの目はどこか遠くを見るように鋭くなった。

その言葉に、蓮見奏(はすみ・かなで)の顔が浮かんだ。彼女はここ数日、天音たちの動きを陰から支えていた。天音は店の片隅の小さな卓へと移り、ココロが渡した短尺テープを硝(あきら)と蓮見に見せることを考えた。だが目の前の瑞希を見れば、ためらいは消えた。誰かが傷つく瞬間をただ眺めている選択肢など、天音の中にはなかった。

夜が落ちる。天音はラジカセを持って瑞希のアパートへ向かった。硝は改造の最終チェックをしてくれることになっている。路地を曲がるたびに、千尋の街はテープの匂いを吐き出した。硝はいつものようにペンライトで回路を照らし、ラジカセのカセットドアを何度も押したり引いたりして、静かな決然を見せる。

蓮見は現場には来なかったが、電話越しに言葉を投げてきた。「深く掘ることは慎重に。眠りの深さで影響範囲は変わる。浅ければ欠片を埋め込む程度で済む。深ければ、あなた自身が主題を消費してしまう可能性がある。今回のテープは短時間でも複数回の刺激設計がある。だから——部分的に留めるべきだ」その言葉は学者の戒めのように冷たい。

硝は手を止めて蓮見の言葉を反芻し、「わかってる。だが……もしも連中がもっとたくさんのテープをばら撒くなら、放置はできない。回収ルートも押さえた方がいい」と答えた。二人の間に、微かな緊張が走る。硝は実務と守りの人間だ。蓮見は理論と限界の守り手だ。どちらも正しい。だが時間は、被害者の胸の裂け目が開いたままであることを許さない。

天音は自分の決定を静かに定めた。「私は、深くは行かない。裂け目を縫い合わせる糸を渡すだけ。全部を取り去るのではなく、君が戻る道を見つけられるようにする」その言葉は、自分自身への誓いでもあった。代償が増えると分かっていても、胸の痛みを隣人にくれてやることはできなかった。

ラジカセの赤いランプが点く。天音はカセットを取り、胸の中で主題を何度も繰り返す。短い言葉、確かな響き。「灯(ともしび)」——この夜の主題はそれだけだ。明瞭で、指先で弾けるように短い。祖母の戒めを思い出しつつも、言葉に込めた温度だけは失わないように歌う。

夢へ滑り込むと、瑞希の夢は薄いビニールの遊園地のようだった。色彩は過剰に飽和して、屋台の灯が綿菓子のように溶ける。だがその真ん中に、裂け目がある。布を無理に引き裂いたような縦の裂け目で、そこからは記憶の断片がこぼれ落ち、通りの音に消されていく。瑞希はその裂け目を前に立ちすくんでいた。胸の奥から何か大切なものが、静かに遠ざかっていく。

天音は言葉を重ねた。灯、灯、灯。語の端を磨くように、声を繰り返す。裂け目の縁に当たる光が、ゆっくりと縫い寄せられていく。欠けていた一節の輪郭が戻るように、目に見えない糸が結ばれる。だが夢は浅かった。瑞希の眠りの粘度は弱く、天音の歌はすぐに溶けかける。彼女はもう一度だけ、主題を強く押し付けるように歌おうとした瞬間、脳裏のどこかで小さな警鐘が鳴った。

「リミットを超えるな」蓮見の声が、