夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第3話「第2章」

蔵の窓辺に差す朝の光が、埃を含んだ空気を金色に染め上げていた。天音はその光の中で、まだ胸に刺さったような小さな穴を感じていた。言葉がひとつ、ふたつ滑り落ちたあとで残る空虚。祖母の言葉が耳に残り、硝の指擦れ音のことが脳裏をよぎる。あの音が鍵であるなら、硝はいつでも鍵を握っている。だがそれがあるからこそ、彼の手が震えて見えたのだ。

蔵の窓辺に差す朝の光が、埃を含んだ空気を金色に染め上げていた。天音はその光の中で、まだ胸に刺さったような小さな穴を感じていた。言葉がひとつ、ふたつ滑り落ちたあとで残る空虚。祖母の言葉が耳に残り、硝の指擦れ音のことが脳裏をよぎる。あの音が鍵であるなら、硝はいつでも鍵を握っている。だがそれがあるからこそ、彼の手が震えて見えたのだ。

「少し、休んだら?」祖母が湯気の立つ茶碗を差し出す。線香の匂いが窓から入ってきた。乾いた磁気と古い紙の匂い、線香の甘さ。天音はゆっくりと頷いた。だが休む暇はない。昨日の夢の余韻が、衣服の皺のように胸に残っていたからだ。

硝はテーブルに置かれたラジカセの横で、顔をしかめながら配線をチェックしている。彼の指は慣れた動きでケーブルを撫で、端子を確かめる。彼の仕事ぶりは無言の安寧を作る。硝の存在がなければ、天音はもっと不安に押しつぶされていただろう。

「今日は、頼まれた案件があるんだ」ココロの店からの連絡は、いつも簡潔で要点だけだった。午後、地下テープショップの奥で待ち合わせることになった。ココロは雑多なものが積み上がった店の中で、いつものように元気に天音を迎えるだろう。だが、胸の片隅にある躊躇は消えない。あの小さな忘却の兆候を、一度でも軽く見てはいけない。

午後の商店街は蒸し暑さを溶かすように人の流れが続き、古道具屋の軒先からは古いラジオのボリュームつまみを回す音が漏れていた。ココロの店は地下にあり、階段を下りると電球の薄暗い光とテープの匂いが押し寄せる。棚には手巻きのテープ、手作りラベル、ポケット版のラジカセがいくつも並んでいる。カセット文化の温度と湿度がここにはあった。

「天音、来た来た。今日は面白い話があるよ」ココロは笑いながら背後のドアを開け、天音を奥の小さなテーブルへ案内した。テーブルの上には短いメモと、誰かが置いていった薄い封筒。中身は、大学の学生名とざっくりとした相談の内容だった。数日前にその学生が店に訪れ、深い倦怠と創作の喪失を訴えたという。彼のために、手早く介入してほしいと。

「どういう状態なの?」天音が訊くと、ココロは肩をすくめる。「眠りが浅くて、夜中にいちいち目を覚ますらしい。夢の記憶もぼんやりしか残らないって。音楽を作ってたはずなのに、楽譜の一部が抜け落ちたみたいに感じるって言うんだよ」

その話を聞いたとき、天音はすぐに昨日の感覚を思い出した。眠りの深さが影響する――それは能力の条件のひとつだった。深い眠りほど夢の時間が伸び、歌の影響力も広がる。逆に浅ければ、効果は薄く断片的になる。天音は自分が何をしてあげられるのか、慎重に考えた。相手の睡眠を与えることは、直接的な介入に当たる。倫理の境界線がそこにある。

店の戸が再び開き、蓮見奏が顔を覗かせた。蓮見は以前研究室を離れた、夢と媒体の理論を知る人だ。昔のままの白いブラウスに、紙の匂いと少しの疲労が混ざっている。彼女の目は冷静で、それでいてどこか痛みを帯びていた。

「お呼びかな」蓮見は淡々と座った。「君、昨日の件は話に聞いた。浅い眠りだと効果は限定的だ。だが、完全に効かないわけではない。手を貸そうか」

天音は蓮見の目を見返した。理屈が欲しかった。昨日、歌の主題が薄れかけたとき、どうして戻るのが困難になったのか。蓮見はゆっくりと表を開きながら、ボールペンでいくつかの図を描いた。紙の上で、夢の深さと音の振幅が絡む図式が現れる。睡眠のステージが深くなるほど夢内の時間が伸び、歌が「主題」をしっかり刻める確率が上がる。だが代償も比例する。深く刻めば刻むほど、歌い手の記憶から言葉が削がれやすい。

「それと、注意点が二つある」蓮見の声は低くなる。「一つは、同じ人物に同じ歌を連続して使うこと。精神的なループが生まれて、戻れなくなる危険がある。もう一つは、対象の同意なしに睡眠を操作することだ。これは倫理的に許せない。君がどうしても深く介入したいなら、その本人から明確な了承を得る必要がある」

天音はその言葉を噛み締めた。硝は横で黙って二人のやり取りを見ている。彼はいつものように安定した存在で、しかしこの話題になると眉間に皺が寄る。天音は声をひとつ出した。

「私、強引なことはしない。話して、寄り添える方法を探す。無理に深く眠らせはしない。……だけど、楽譜を取り戻してあげたい」

蓮見は少しだけ表情を和らげ、古いカードケースから小さな再生機を取り出した。それには小さなテープが入っており、指先で擦るとごく小さな擦れる音が聞こえた。硝のラジカセに残っていた指擦れ音と似た、しかし痕跡としての風合いを帯びた音だ。

「これが、前から言っている“手掛かり音”の一種よ」蓮見は言った。「指擦れや物理的なノイズは、夢の中で“触感”や“動作”として定着しやすい。かすかな物理的刺激が、夢の中で現実へ戻るための手掛かりになることがある。硝君のあの音も、君が帰還するための合図に使えるかもしれない」

硝はゆっくり頷いた。彼の顔に珍しく心底からの決然が差す。天音は胸の中でその決意を受け止めた。アンカーは物理的なもの、そして音の断片でもありうる。帰還のための小さな糸はいるのだ。

夕方、天音は相談された学生の住むアパートへ向かった。高瀬健──二十歳を少し超えたくらいの彼は、大学の図書館でよく見かけるタイプだった。部屋は薄暗く、譜面が散乱し、ギターと小さなキーボードが壁にもたれていた。窓には遮光カーテンがかかっており、窓辺に被さるように線香の残り香とテープの甘い匂いが混ざっていた。

「よく来てくれました。頼みたいんです、先生には言えなくて」高瀬の声は掠れていて、瞳はどこか虚ろだ。彼は眠りに落ちやすいかと問うと、逆に浅くてすぐ目が覚める、と言った。夜中に目が覚めると、夢に見た断片を覚えていられない。楽譜の一行が欠けている感覚。まるで手元のページから一行が引き抜かれているようだと。

天音は彼の手を軽く取った。肌は冷たく、しかしその冷たさが逆に現実を確かに感じさせた。彼の同意を取り、天音はカセットに短い歌を録音した。主題は簡潔で、明瞭な語感を持つ言葉を核にして組み立てる。録音の際、天音は慎重に息遣いを調整し、テープの劣化した雑音が歌声を包むようにした。効果を最大限にしたい反面、彼女はルールを守らねばならない。同じ人物に同じ歌を連続で使うことは禁忌だ。今回は初めての介入であり、かつ彼の同意がある。だが深く入りすぎれば代償は増す。

「一晩だけ。私は一緒に夢に行くけど、深くは掘らない。君が自分で歌を見つけられるように、そっと導くだけ」天音はそう告げた。高瀬はうなずき、カーテンを閉め、眠りにつく準備をした。眠りの深さを高めるための無理な薬物や外部刺激は使わない。彼女はその倫理を守ると誓ったのだ。

夜、ラジカセの小さなランプが赤く点灯する。天音はカセットを手に取り、主題を胸の中で何度も繰り返す。短い単語、確かな響き。祖母の言葉が囁く。「主題は短く、明瞭に」。夜の静寂の中で、彼女の意識は熱を帯びて引き伸ばされ、やがて柔らかな闇のような場所へ滑り込む。

夢の中は、白いレッスン室だった。床に散らばる五線譜、窓の外には古い電車の影。高瀬はピア