夢見るカセットの歌手 第2話「第1章」
蔵の奥はいつも、時間の匂いが籠もっていた。古い木箱の継ぎ目にたまった埃の匂い、日中でも薄暗い空気の中で漂う線香の残り香、そして磁気テープが吐くかすかな金属臭。天音はそこに立ち尽くし、掌の中のカセットを眩しげに見つめた。テープのラベルは色あせ、文字はかすれている。だがそこに刻まれた回し書きのような短い言葉だけは、鉛筆の濃淡が残り、しっかりと読めた。短い主題。それは彼女がこれから守らねばならない約束の輪郭のようでもあった。
蔵の奥はいつも、時間の匂いが籠もっていた。古い木箱の継ぎ目にたまった埃の匂い、日中でも薄暗い空気の中で漂う線香の残り香、そして磁気テープが吐くかすかな金属臭。天音はそこに立ち尽くし、掌の中のカセットを眩しげに見つめた。テープのラベルは色あせ、文字はかすれている。だがそこに刻まれた回し書きのような短い言葉だけは、鉛筆の濃淡が残り、しっかりと読めた。短い主題。それは彼女がこれから守らねばならない約束の輪郭のようでもあった。
「覚悟しなさいよ」と祖母は戸口で言った。肩に年輪のある紙入りの扉を押し開け、細い指で一本の線香をふうっと消した。火の跡が一瞬、黄金色に揺らめく。祖母の声は昔話をする時よりずっと低く、警告のように響いた。「歌は人を縫い合わせる術でもあるが、ほどきもする。主題を忘れれば、歌い手は夢の中に残る。わたしの世代がそういう者を何人か知っている」
硝が小さな笑いを噛み殺しながら、ラジカセの前で波形を見ていた。彼はテープをセットしただけでなく、ヘッド周りの埃を歯ブラシでこそげ落とし、キャプスタンに軽くオイルを塗って、動作を確かめている。彼の指先には昔の癖が残っていて、テープを押さえる位置を試しながら、ふと不意に見せた表情が真剣になった。
「周期的なピッての、入ってるな。雑音に紛れてるけど、規則正しい。意図的に刻まれたみたいだ」硝が画面の波形を指でなぞる。細い線が一列に並ぶのを彼は指先だけでなぞれるかのように見つめた。「それと、ここな。指擦れの音。お前の録音のときの指の音に似てる。昔の録音って、こういう痕跡が残るもんだ。懐かしい」
天音はその言葉に頬を熱くした。幼い頃、硝がラジカセを抱えて彼女の歌を録るとき、硝はいつもテープの端をしっかり押さえていた。小さな指先がカセットの表面をこすった音が、今のラジカセにほんの一瞬だけ残っている。指擦れは彼女にとって、夢の中で現実へ戻るためのささやかな合図になるのではないかという、空想の一端だった。
祖母は古い箱から、さらに一枚の紙片を取り出して天音の掌に滑り込ませた。薄い楽譜の一行。先に見た譜面とは音符の配列がわずかに違っている。かすれた音符の間に、母音の短い言葉が一つだけ添えられていた。祖母はその紙の隅をぎゅっと掴み、天音の顔を見た。
「これを封じていたのよ。昔、歌で夢を縫った者がいた。彼女は主題を忘れて、戻らなかった。だから封じた。お前はそれを触った。戻るつもりなら、主題は短く、単純に。そして何より忘れるな」
天音は力なく頷いた。言葉は胸の奥で渦を巻き、出てこなかった。だが指先で紙の縁を確かめると、冷たさが伝わり、それが恐れを静める一片の確かさとなった。彼女はラジカセの録音ボタンに手を伸ばし、唇をわずかに震わせて音節を口にした。短い単語がメロディーに乗る。テープはゆっくりと、古い歯車の慣性で回り始める。
「一巻につき一夜だけ。有効期間は一夜。自分の夢には決して使うな。同じ人に連続で使ってはいけない。主題を忘れれば帰れない」祖母の言葉が、空気の中でまた繰り返される。戒めとして、条件と禁止が深く胸の中に刻まれた。
夕暮れが街を覆い、風が古い家々の隙を吹き抜ける頃、天音は決意を固めた。近所の老婦人、佐原のおばあさんは夜が深くなると必ずラジオをつけ、古いドラマをぼんやりと聴きながら眠る習慣がある。硝と祖母が手伝ってくれると言った。硝は外回りでカセットが壊れないように細工をし、祖母は佐原の夕飯を理由に戸をノックする。天音は自分の歌を録ったテープを小箱に入れ、ラベルに短く主題の一語を書き込んだ。忘れないように。自分への誓いのように。
夜、薄い紙障子越しに聞こえるラジオの音が、蔵の隙間を通って届いた。テープが回っているのだと、硝は腕組みをして窓枠に肘を立てて言った。「あとは眠りの深さだ。相手が深く眠れば、時間の伸びも、影響の範囲も大きくなる。だが深い眠りは起こすのも難しい。選ぶべきは……」
天音は静かに首を振り、じっと目を閉じた。彼女は歌の主題を何度も心の中で繰り返す。短い音節、はっきりした語感。主題が揺れたらまずい、揺れたら帰れなくなると祖母の声が脳内で反芻する。彼女はその一語を胸に押し込み、夜の暗さに身を委ねるように横たわった。今はまだ、現実の枕が冷たい。
夢の入口は、ラジカセのスイッチが押されたその時から緩やかに開かれていった。天音はふっと吸い込まれるように意識が薄れ、しかし奇妙に鮮明な光景へと立っていた。そこは佐原の若い日の台所だった。桐製の食器棚、磨き込まれた火鉢、窓の外に見える小さな庭の柘植。匂いは、当時の味噌汁の香りと、乾いた草履の匂いだ。夢はその人の記憶の色に満ちている。天音は主題を頭の中で繰り返しながら、夢の中の佐原を探した。
佐原の姿は容易に見つかった。若き日の顔は今よりずっと柔らかく、目に翳りがあった。手に持った箱に入った小さな布切れを抱えて、彼女は小声で呟いている。「帰るはずだったのに……」夢が差し出す痛みの中心は、喪失だ。天音は唇を震わせて歌い始めた。主題は「帰る」でも「待つ」でもなく、短く確かな言葉を芯にして織り込む。歌は夢の空気に溶け、目の前の光景をそっと撫でていった。
夢の時間は濃密だった。天音が歌うたびに花の色が戻り、火鉢の灰が少しずつ整えられていく。佐原の指先は震えを収め、目が柔らかくなった。彼女は歌に導かれるように箱の蓋を開け、そこにあったのは小さな手紙と写真――若き日の夫の微笑み。夢の中で、佐原はそっと微笑み、そして息をついた。泣いていた目が、洗われるように透き通っていった。天音は胸が締め付けられるのを感じながらも、歌うことをやめなかった。歌は治癒をもたらすという温度を帯びていた。
だが、戻りが近づいたとき、なにかがおかしくなった。主題の輪郭がふにゃりと溶け、言葉の端がかすれた。天音はそれを意識的に押し戻そうとしたが、夢の中の時間は思った以上に粘度があった。彼女の声も、テープの劣化のせいかところどころに潰れが生じた。夢は優しく彼女を引き寄せる反面で、主題の確実さを蝕んでいく。
「戻れ、戻るんだ」天音は自らに言い聞かせた。だが言葉が指の間から滑り落ちるように、完全に取り戻せない。目の前の佐原は安心して目を閉じ、夢の中の世界は安らぎを取り戻していく。天音はそれを見届ける使命感に駆られ、余韻を歌に残そうとした。そこへ、遠くで硝のラジカセの指擦れ音が、まるで鍵のように夢の空気を突いて鳴った。
その音が現実への手掛かりとなったのか、それとも気のせいか。天音の胸の中で、主題が一瞬だけはっきりし、彼女は自分の声を確かに聞いた。だが同時に、どこか言葉が抜け落ちる感覚があり、夢から戻る際の世界のエッジがぼやけた。夢と現実の境目が砂のように崩れる。帰還は滑らかではなく、むしろ何かに引き伸ばされるようだった。
朝の光が差し込んだとき、天音は布団の中で目を覚ました。頭の中に残るのは、温かい火鉢の匂いと、佐原の手に残る微かな笑み、そして自分の口元に残っているはずの単語の輪郭が、薄れていく不快な感覚だった。言葉がゆっくりと溶けていくように、幼い日の遊び場の匂いの記憶がぼやけていく。舌先にあった小さな言葉が、そこでく