夢見るカセットの歌手 第24話「第22章」
朝の光はまだ柔らかく、千尋の町はアルミサッシの縁に取り残された蒸気のようにゆっくりと立ち上がっていた。天音は目を開けると、声がまだ薄い布のように胸を覆っているのを感じた。喉に触れると、そこには確かな温度があり、歌を欲するうずきも残っている。だが言葉は細く、繋がりにくい。彼女はベッドの縁に腰掛け、硝がくれた小さな無線ラジオの部品を手のひらに転がした。金属と樹脂の冷たさが、彼女の不安を少しだけ緩める。
朝の光はまだ柔らかく、千尋の町はアルミサッシの縁に取り残された蒸気のようにゆっくりと立ち上がっていた。天音は目を開けると、声がまだ薄い布のように胸を覆っているのを感じた。喉に触れると、そこには確かな温度があり、歌を欲するうずきも残っている。だが言葉は細く、繋がりにくい。彼女はベッドの縁に腰掛け、硝がくれた小さな無線ラジオの部品を手のひらに転がした。金属と樹脂の冷たさが、彼女の不安を少しだけ緩める。
「今日は子どもたちのクラスだろう?」
硝はテーブルの向こうで工具を仕舞いながら言った。動作はいつものように静かで、煩わしさはなかった。彼の目はじっと彼女を見つめるが、それは問いかけでもあり、励ましでもある。天音はゆっくり頷いた。言葉に詰まるとき、彼女はまず頷くことで会話をつなぐ癖をつけていた。
音楽教室は町の市民センターの二階にあり、夕方になると近所の子どもたちがやってくる。今日は蓮見とココロがボランティアで手伝うことになっている。蓮見は資料と何枚かの譜面を持ち、ココロは古いカセットデッキとお菓子の小袋を抱えて現れた。三人の視線は自然と天音へ集まる。彼女は深呼吸をして、教室のドアを開いた。
子どもたちの顔がぱっと明るくなり、声が空気を震わせた。幼い手足の匂い、洗い立ての上着の綿のにおい、鉛筆の粉。天音は一瞬、自分が戻ってきた場所を確かめるようにその感覚を吸い込んだ。彼女は口を開け、小さなメロディを鼻歌にした。声はかすれ、息が先行したが、子どもたちの目は瞬時に注がれた。
「今日はね、みんなで『音で繋ぐ遊び』をしよう」
言葉は短く、途切れ途切れだった。子どもがすかさず真似をして声を返す。天音は手でリズムを刻み、身体で示した。言葉が繋がらなくても、身体は伝える術を持っている。硝が教室の隅で小さなスピーカーを磨き、蓮見が譜面を広げ、ココロが「さあ歌おう」と手を広げる。安心感が波のように広がり、天音の胸に少しずつ熱が戻ってくる。
一人の小さな女の子が、最近夜に悪い夢を見ると手を挙げた。夢の話をするとき、子どもは言葉を探すように目を伏せ、指先で袖をいじった。天音は彼女の顔を見て、歌の能力を使ってしまいたい衝動に駆られた。深い眠りへ入れば影響は強くなる。だが禁止は彼女の背骨だ。自分の判断で他人の夢を操作すること、それがたとえ救いだとしても、勝手に行っていいわけがない。封じ歌に触れないと誓ったその夜の決意が、脳裏で明晰に響く。
「大丈夫、ねえ、まずはここでゆっくり歌ってみようか。手拍子を合わせるだけでもね」
天音は砂糖を噛むように言葉を選び、短いフレーズをそっと歌った。声は柔らかく、そして意図的にコンパクトだった。子どもたちが耳をすませ、ときには小さな声でハモった。女の子の肩が次第に緩むのを、天音は見逃さなかった。夢の深い層を直接縫うことはしなかったが、現実での安心を少しだけ紡ぐ──それが今の彼女にできる救済だった。
休憩時間、天音は硝と二人で冷たい麦茶を飲んだ。子どもたちの笑い声が廊下越しに響く。硝はふと、ポケットから小さな布切れを取り出して、彼女の手の甲に触れた。そこには、昔のラジカセを修理したときに採った指擦れの跡を真似た小さな模様が縫い込まれている。硝はそれを天音の手の甲に軽く押し当てる。
「これ、覚えてる? 僕らの約束の合図。返るときは、これを思い出して」
硝の声音は淡々としつつも、確かな温度を含んでいた。天音は目を閉じ、その感触を胸の中に入れた。指擦れの音——硝のラジカセに残るあの雑音は、現実へ戻る鍵でもある。言葉が抜け落ちそうになるとき、彼の指が彼女を現実へ引っ張ってくれる。その事実が彼女にどれほどの支えになるか、言葉は必要なかった。
午後、蓮見から簡単な課題が渡された。毎日同じ三つの短い音節を繰り返すこと。朝の散歩の途中で口にすること、寝る前に指で軽くリズムを刻むこと。言葉を失ったときに、それを手がかりに記憶を呼び戻すためのトレーニングだ。蓮見は理屈を静かに説明する。
「記憶は音ともリンクしている。それを小さく、日常の繰り返しに埋め込めば、また言葉が戻るかもしれない。急ぎすぎないで、天音さん」
蓮見は彼女の目を見て、そこに研究者としての冷静さと人としての優しさを混ぜた。天音は弱く微笑み、蓮見から渡された小さな譜面に三つの音節を書き込んだ。譜面の端に旧い譜面の一行がチラリと見える。封じ歌の断片と似た文字列が並んでいるが、天音はそれに触れず、視線をずらした。触れない誓いが、今日も彼女を守る。
その日の夕方、ココロが声を上げて駆け込んできた。店の前で不思議な出来事が起きているという。人が立ち止まり、鼻歌を口ずさんでいるだけなのに、どことなく顔つきがぼんやりしている。夢見心地という表現がぴったりの、目の奥が少し遠くなるような変化だ。しかも鼻歌は同じ短いループに聞こえるという。
「たぶん気のせいよ」とココロは笑おうとしたが、目が真剣だった。「でも、あの黒い断片が届いてから、何かが少し変わった気がするの。鈍い周期音みたいなものが、空気に混じってる感じがするのよ」
天音はその言葉を聞いて、胸の中に低い警鐘が鳴るのを感じた。先日、封筒の中にあった黒い断片──それは彼女たちの「触らない箱」の中に入っている。硝、蓮見、ココロの誰かのキーで管理されているはずだ。しかし、波形の残滓は一度だけ蓮見の解析機にかけられており、その端に周期的なビープの痕跡が見えたという。蓮見は「無害とは言い切れない」と呟いた。今、町の空気がほんの少し、変わっているのかもしれない。
天音は決して衝動的な行動は取らないと誓っている。だが、他人の夢の端が揺れているのを見過ごすわけにもいかない。彼女は硝の手をぎゅっと掴み、言葉が途切れがちに告げた。
「見に行こう。遠くに行かないで、まずは様子を確かめるだけ」
硝は深く頷き、二人は外へ出た。夕暮れの風はまだ夏の残り香を含んでおり、商店街のネオンがぼんやりと町角を染めている。ココロの店の前には三、四人の若者が立ち止まり、ぽつりぽつりと同じ短い節を口ずさんでいた。耳を澄ますと、それは確かに三秒ほどの電子音を思わせるリズムと、ほんの少し揺らぐ鼻歌が混ざったものだった。
「ふうん……」
硝がラジカセを取り出して周波数を探る。彼は機械いじりが得意だ。天音はそれを見ながら、自分の能力を使う誘惑と戦った。もしこの鼻歌が夢の余響であり、強制的に介入すれば、一時的にでも人々を正気に戻すことができるかもしれない。だが能力の代償は彼女の身体に確実に刻まれている。主題を忘れれば、夢から戻れなくなる。封じ歌を人知れず使うことは、封じられた理由そのものだ。
「まずは調べよう。無理に介入はしない」
天音は短く言い、硝に目を送り、硝はうなずいた。彼の手は震えていなかったが、目には緊張が浮かぶ。蓮見とココロに連絡が入り、現場に到着するまでの間に、天音は小さな子どもに向かって短い歌を一節だけ口ずさんだ。それは封じ歌とは無関係の、ごく単純な母音の連なり。子どもの肩が少し沈み、目がゆっくりと現実へ戻ってきた。
「ありがとう、お姉ちゃん」とその子は笑った。天音はほっとしたが、その安堵のすぐ裏側に不安が差し込