夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第23話「第21章」

硝の工房は、かつての倉庫の一角を借りて始まった。天井の梁にぶら下がった裸電球は昼でも少し黄色く、ラジオ部品の棚が壁一面に整然と並ぶ。硝は朝の光を受けて、指先に油の匂いを残しながら古いトランスをはめ直していた。金属と磁気の匂い。線香とテープの匂いと違って、ここには何かが直る音――通電したときの小さな鳴りが常にある。

硝の工房は、かつての倉庫の一角を借りて始まった。天井の梁にぶら下がった裸電球は昼でも少し黄色く、ラジオ部品の棚が壁一面に整然と並ぶ。硝は朝の光を受けて、指先に油の匂いを残しながら古いトランスをはめ直していた。金属と磁気の匂い。線香とテープの匂いと違って、ここには何かが直る音――通電したときの小さな鳴りが常にある。

「ほら、ここをこうして」
硝は手を止めずに、天音にドライバーを差し出した。指先は相変わらず器用で、半田ごての先で小さな抵抗を当てる。天音はできる範囲で手伝いながら、修理の手順を学んでいく。彼女の声はまだ完全には戻っていないが、日常会話程度の音量と抑揚は戻りつつある。ラジカセのケースを開けると、内側で静かに時を刻む小さなモーターの音が聞こえる。硝はその音を聴きながら、ふと小さな笑みをこぼした。

「ここを直すのは、ただの儀式みたいなものだよね」
天音は言葉を選びながら答える。彼女は「儀式」という言葉が嫌いではなかった。壊れたものに触れることで、過去の痛みを確かめ、少しずつ向き合えるからだ。

硝は首を振った。「記念じゃない。動かなくなったものを動くようにするだけ。動けば音が帰ってくる。音があると、人は戻る。そういうのは、意味があるんだ」

工房はやがて近隣の小さな修理依頼で忙しくなった。子どものポータブルプレーヤー、古い目覚ましラジオ、母の形見のテープデッキ。硝は一台ごとに、天音の手を取って使い方を教えた。手を取り合うだけで、言葉以上のやり取りが成立する。天音は硝の静かな励ましを何度も受け取りながら、自分の声と身体の記憶を少しずつ取り戻していった。

一方、蓮見は役所の小さな会議室で資料を広げていた。彼女の手元には古い論文の縮刷と、醒夢連合の解体後に回収された端末の解析報告がある。夢介入技術の倫理委員会から招かれたのだ。壇上で話す蓮見の目はいつもより硬く、説明は冷静だったが、その中に確固たる後悔と責任の色が混じっていた。

「我々は技術の可能性を過小評価していたわけではない。むしろ過大評価し、その管理を怠った」
彼女はマイクの前でそう言った。聴衆の中にはかつて封じ歌で救われたという人もいれば、被害にあった家族の姿もある。蓮見は自分の過去の失敗を正直に語り、規範の必要性を訴えた。市は小さな条例改正を動かし始め、研究と実践の間に新しいガイドラインが生まれつつある。蓮見の胸にある痛みは消えないが、それを糧に法と教育のラインを引こうとする決意が、彼女の肩を少しだけ軽くした。

ココロは店の奥で大声を張らないようにしながら、新しい計画を打ち合わせていた。地下で流通していたテープと、人々の記憶をつなぐコミュニティを、どうやって合法的に、かつ安全に引き継ぐか。ココロはネットワークの人脈を文化保存へと転換し、カセット文化のワークショップや、被害者支援のカセット寄贈プロジェクトを立ち上げた。店のショーウィンドウには、復刻テープと「扱い方」の小冊子が並び、街の人々が安全にカセットと触れ合える場所ができていった。

「ただ保存するだけじゃない。教えることが大事なのよ」
ココロは笑いながらそう言った。彼女の目はいたずらっぽく光るが、その裏には誰よりも強い責任感があった。地下の流通を知る彼女だからこそ、危うい針路を正しく導けるという自負があった。

真白は遠くの街の駅で、一度だけ顔を見せた。短い会話の後、彼女はまた去っていった。彼女は自分の技法の危険性と利点を同時に抱えたまま、旅を続けるようだった。会うたびに少しだけ距離が縮まったが、彼女はまだ単独行動を好む。天音は真白の名を口にしないでも、彼女の影響を感じていた。真白は己のやり方を捨てるわけではないが、天音たちのやり方を否定しなくなっていた。

「私は、違うやり方でやる」
真白はある夜に短く呟いた。それは宣言でもあり、謝罪にも似た言葉だった。天音はそれを風の音のように受け取った。

日常は、少しずつ戻ってゆく。しかし、完全な安寧ではなかった。ときおり、天音は夜の片隅で夢の薄い残滓を感じる。誰かが遠くで鼻歌をするような、指先で擦るような微かな音。能力の条件と禁止、代償は彼女の胸に深く刻まれていて、決して安易に忘れられるものではない。彼女は自分の中にルールを新たに設けた――封じ歌には触れない、未登録のカセットにも手を出さない、歌が誰かの夢に入り込むときは、仲間全員の同意がなければ使わない。これは彼女なりの自己防衛であり、他者保護でもある。

その晩、硝は天音を作業台の向こうに誘い、小さな紙箱を差し出した。中には古い、けれど丁寧に磨かれたラジオの一部が収められている。硝はそれを天音の手のひらに載せ、真剣な顔で言った。

「これを直すのは君の声じゃなくて僕たちの仕事だ。君は歌うだけの存在じゃない。ここで人と直に向き合って、声以外の方法で人を支えていけるんだよ。僕は、それを見たい」

天音はしばらくそれを眺め、ゆっくりと頷いた。硝の言葉は告白に近く、だが無理強いはしない。彼はいつものように静かな強さで彼女を支えていた。天音は胸の奥に、暖かさと同時に小さな痛みを感じた。感情は声を失った後も残る。それは消えない。

封じ歌は確かに蔵に封印され、行政の記録に従って管理されている。鍵は二重、記録は電子と紙で保存され、アクセスには複数の承認が必要だ。だが、棚の隅にかすかな光を放つ未登録カセットがあることは変わりなかった。誰も口にしないが、彼らはその存在を知っている。触らない決意を共有することで、逆に未登録カセットの重みは増した。

ある午後、天音が工房の窓辺で縫い物をしていると、郵便受けに小さな封筒が届いた。封筒に差出人はない。硝が先に気づき、ふたりでそれを開ける。中に入っていたのは、黒いカセットテープの極めて小さな断片だった。前に真白が祭りの後に投げ入れていったのと同じような不完全な断片。だが、今回のそれは微妙に違っていた。テープの磁気面にごく短い電子音のループが刻まれていて、再生すると三秒ほどの冷たい音が、まるで遠い駅の自動改札のように「ピッ」と鳴った。硝は眉を寄せ、蓮見に解析を頼む。蓮見は手袋をはめてそれを顕微鏡で覗き込む。

「波形が乱れてる。だけど、これだけだと封じ歌とは関係なさそうだ」
蓮見はそう言って肩をすくめた。ココロは匂いをかいで、首を振った。「匂いはないわね。でも、真白がこれを送る意味はある。彼女は何かを伝えたいんじゃないか」

天音はそれを手に取った。指先に伝わるのは、わずかな冷たさと、かつて自分が感じた磁気の鼓動とは違う別の印象だ。彼女は深呼吸してから、封筒に入っていた小さな紙片に目をやった。そこには短く、手書きの一行があるだけだった。

「触らないで、と言わない。だけど、忘れないで」

署名はない。真白の筆跡かもしれないし、違う誰かなのかもしれない。硝は天音の隣で静かに手を握った。天音は紙片を胸に当て、目を閉じる。そのとき、胸の奥で――以前よりも柔らかい、しかし確かな震えが走った。夢の端がちらりと開いて、誰かの低い歌声がかすかに鼻歌になって耳をかすめるような感覚。天音はすぐにそれを押し戻した。能力の禁止は彼女の背骨のように固く、自己統制のルールは