夢見るカセットの歌手 第1話「序章」
蔵の戸を開けたとき、空気が少しだけ重く吐息のように漏れ出した。木の古い匂いと、長年蓄えられたカセットの匂いが混じり合う——ヤニの香り、線香の残り香、そしてどこか金属に似た乾いた汗の匂い。天音はその匂いに育てられてきた。祖母の商う古道具屋は町外れの小さな島のように、時代の外れのものだけを静かに守っていた。
蔵の戸を開けたとき、空気が少しだけ重く吐息のように漏れ出した。木の古い匂いと、長年蓄えられたカセットの匂いが混じり合う——ヤニの香り、線香の残り香、そしてどこか金属に似た乾いた汗の匂い。天音はその匂いに育てられてきた。祖母の商う古道具屋は町外れの小さな島のように、時代の外れのものだけを静かに守っていた。
「ここにいると、時間がくしゃくしゃになるんだよねえ」
祖母は半分笑って半分しかめ面で、古いラジカセの脇に小さな茶碗を置いた。茶碗の縁にはまだ朝の緑茶の輪が残っている。天音は蔵の奥で埃だらけの箱を引きずり出し、その中の一巻のカセットを見つけた。ラベルは色褪せ、紙は端から剥がれかけている。だが、そこに残された小さな紙切れが彼女の指先に触れたとき、胸の奥が震えた。
紙切れには譜面のように見える一行の短い断片が、鉛筆で走り書きされていた。五線譜の上に、ほんの一節分の旋律と、かすれた文字で「帰るための言葉」とだけ書かれている。天音はその一行を指でなぞった。指先に、前世のような、誰かの声の温度が走った気がした——幼い頃から夜に聴いた、決して消えない歌の余韻が。
「それは——」
祖母の声はふいに小さくなった。蔵の隅の薄暗さが深まる。祖母は天音よりも先にその一行に気づいていたのだろう。静かに、しかし確かに、彼女の目は古い痛みを呼び覚ますものを見つけたときのように濡れていた。
「声を使う者の話を、覚えてるかい。昔、歌で夢というものを縫い直す者がいてな。けれど歌には『主題』というものがあってね。主題を忘れれば——その歌手は夢に帰れなくなる。現実には戻ってこれぬまま、身体だけが置き去りになることもあるって、そういう話だよ」
天音はその言葉を聞きながら、子どものころ見た夢を思い出した。夜ごと誰かの歌がどこかから返ってきて、自分の名前のように部屋を回っていた。だがその歌はいつも彼女を置き去りにしない。どこかで必ず戻れる糸があった。もしその糸が切れるのなら、と思うと胸が冷たくなった。
「封じ歌って呼ばれてるの、この辺りじゃ。うちの代々がそういうものを集めて、悪いことにならぬようにと蔵にしまっておいた。お前が触るのは、よく考えてからにしなさい」
だが祖母の言葉は拙い抑止にしかならなかった。天音の好奇心は渦のように膨らみ、理性の薄い糸を切ってしまいそうになる。彼女は譜面の断片をもう一度見つめ、唇の端で軽くメロディをなぞった。音はほとんど空気の震えのようで、言葉にもならない。だがそれだけで胸がぽっと温かくなり、何かを確かめたくなる欲求が波打った。
そのとき、蔵の戸の外から足音が聞こえた。硝が来たのだ。硝は幼なじみで、天音の片腕のようにいつも傍にいた。硝が手に抱えていたのは、彼がいつも弄っている古いラジカセだった。金属の淵には半田の跡がまだ乾かずに残る。彼は開け放した本体の蓋を覗き込み、瞬間的に目を細めた。
「また変なガラクタ拾ってきたな、天音。なにこれ、デザインがかわいいけど」
「それ、もう使えるかな?」
「んー、駆動はまだだ。テープの状態次第で、かなり厳しいかも。巻き取り、試してみるよ」
硝はさくさくと工具を取り出し、ラジカセのテープを天音に差し出した。彼の指先はいつも静かに確かで、物を触るときの優しさがある。天音はカセットを受け取り、その側面のラベルを丁寧にめくった。ラベルの下には、薄く別の文字が残っていた。インクがにじんでいるが、そこには短い英字のような記号の列と、規則的に刻まれた小さな点々——周期的なビープを思わせる痕跡が見えた。
硝がふっと笑った。「これ、面白いぞ。テープのノイズの中に周期的な高い音が混じってる。普通は雑音なんだけど、これ、意図された刻印かもしれない」
彼は自分の古い録音機を取り出し、近頃の癖で波形をざっと見るようにしてテスト再生を始めた。カセットから出てきたのは、埃混じりのハム、遠いラジオ局の混信、誰かの小さな笑い声——そして確かに、規則正しいピッ、ピッ、ピッという小さなブEEPが、背景のノイズに埋もれていた。
「監視かタグか……誰かの印かもしれないね。今の機材じゃ読み取れないけど。こんな古いテープにわざわざ刻む意味って何だろう」
天音はハミングを止め、もう一つ気付いたことを手のひらにすくい上げるようにして言った。「それと……このテープ、ラベルの下に小さな擦れ跡がある。硝のラジカセにも、昔から指が擦れるような音が入ってるでしょ?」
硝は肩をすくめた。「ああ、それは……昔、お前がここで歌って録音したときの指擦れかもしれない。お前の声を拾うために、俺がテープ押さえたりしてたからな。指の音が入っちゃったんだ。懐かしいな」
その言葉に天音の頬が一瞬紅くなった。彼女は幼い日の記憶がふわりと顔を出すのを感じ、胸が柔らかくなった。指擦れの音——それは小さな手掛かりで、いつか夢の中で現実へ戻るための合図になるのかもしれないという、漠然とした予感が頬骨の下に暖かく広がった。
祖母はそんな二人を遠目に見て、戸棚の引き出しから小瓶を一つ取り出した。瓶の中には短く切られた紙片が幾重にも詰められている。彼女はそのうちの一枚をゆっくりと引き抜き、天音の手のひらにそっと重ねた。そこにはまた、一行の譜面——だが先ほどの譜面とは僅かに異なる音符の配置が書かれていた。祖母の目には多少の疲労と、きつい決意が見える。
「これは封じていたものよ。昔の歌手が使っていた。歌は人の夢を治すこともできるが、同じだけ危うい。『主題』を忘れなければ救える、忘れれば巻き込まれる。お前はそれでも試すのかね」
天音は答えをためらった。言葉は胸の中で渦になり、出てこなかった。彼女は無意識に蔵の奥へ視線を投げ、埃に埋もれた棚の影を見た。幼い頃に夜ごと響いた歌の余韻は、いつだって彼女をそっと引き寄せていた。自分の声が誰かの夢に寄り添えるなら——その温度を確かめたかった。
「私、自分の歌で誰かの夜を少しでも……」天音の声は震えた。「もし、間違えたらどうなるかってことはわかってる。戻れなくなるってことも。だから、ちゃんと主題を決めて、忘れないようにする。硝、手伝ってくれる?」
硝はじっと天音を見つめ、ゆっくりと頷いた。「当たり前だ。お前がどんなに夢の奥に行っても、俺がここで呼び戻す方法を考える。戻る合図、録音の位置、全部。たとえそれがどんな代償だとしてもな」
祖母は唇をぎゅっと結び、天音に向かってひと言だけ付け加えた。「ならば覚悟しなさい。歌の主題は短く、はっきりと。余分な意味を含ませてはいけない。使えるカセットは一夜だけ。相手には無断に使ってはならぬし、自分の夢には決して入ってはならぬ。それが昔からの戒めよ」
天音は譜面の一行を胸の前で軽く握った。紙が掌の中でしわくちゃになった。それでも指先に残る感触は小さな真実のように温かかった。彼女はそっとカセットの上に口を寄せ、息をそっと吹き込んだ。温い吐息が磁気の埃を舞わせる。硝が機械の設定を確認し、祖母は古い箱から線香を一本取り出してふーっと火を消した、余韻だけが立ち上る。
「一晩だけよ。相手の夢に入るのは、それで終わり。それで——戻る」
天音は深く息を吸い、