夢見るカセットの歌手

夢見るカセットの歌手 第11話「第10章」

月明かりが薄く差し込む倉の中で、天音は自分の声の欠片を探していた。声はそこにあるはずだった。けれども、指の先に触れる感触はいつもより薄く、紙の端を撫でるように脆かった。硝の包帯の匂い、ラジカセの消毒の匂い、紙のインクの匂いが混じって、現実はゆるやかに揺れている。

月明かりが薄く差し込む倉の中で、天音は自分の声の欠片を探していた。声はそこにあるはずだった。けれども、指の先に触れる感触はいつもより薄く、紙の端を撫でるように脆かった。硝の包帯の匂い、ラジカセの消毒の匂い、紙のインクの匂いが混じって、現実はゆるやかに揺れている。

「無理すんなよ」硝は、寝台の上でかすれた声を振り絞った。包帯の隙間から血がにじんでいる。彼の目は日に日に鋭さを取り戻しているが、まだ痛みが深い。硝はラジカセを近くに置き、布越しに指を動かして擦れる音を作った。短いリズムが部屋に溶けるたび、天音はその音に身体を引き戻されるように感じた。擦れる音がアンカーであることを、二人はもう何度も確かめてきた。

蓮見がテーブルの前で端末を打ち続けている。波形が幾重にも重なり合い、周期ビープの逆流トリガーのプロトタイプが形を取り始めていた。ココロは手に入れてきた地下流通の伝票を床に広げ、連合の今夜の行動予定を指で追っている。真白は隅のイスに沈み、煙草の灰を定規のように落としていた。溜め息がひとつ、ゆっくりと部屋を満たす。

「位相合わせはこのあたりか」蓮見が言って端末の画面を指す。画面上の波形は、明らかに二つのパターンが逆相に近い瞬間を作り出している。それが周期ビープの逆流だ。逆流が成功すれば、連合の装置に埋め込まれた識別子は干渉を受け、装置は自律的に誤作動を起こす。理論上はそれだけで装置の制御を崩せる。ただし位相のずれはミリ秒単位で致命傷になる。少しでもタイミングが狂えば、逆に装置を刺激してしまう危険がある。蓮見の手は震えていた。

「あなた、本当にやるんだね」真白が、天音に向かってつぶやく。言葉には冷たさと温度が同居していた。彼女は以前のような対峙のまなざしをしているが、その目は確かに変わった。敵意の刃が薄らいで、補完の糸が見え始めている。

真白は自分の技法の一端を天音に示した。忘却防止のための「逆縫い」と呼ばれる方法だ。歌の主題が夢に刻まれるとき、その主題は流動的に記憶を引きずる。逆縫いはその流れに付けられた小さな印を作る。身体の動き、歯の内側に押し込む舌の位置、手の指先で弾く小さなリズム──そうした物理的な印が、歌の音像と結び付き、主題が揺らぎ始めたときに自己の手掛かりとして働く。しかし真白は警告した。「だがな、それは一時しのぎだ。印を深く刻むには声を生贄にしないといけない。喉が焼けるように消耗する。私はそれを一度やって、三日間音が出なかった」

天音は黙って真白の話を聞いた。禁止事項はいつも頭の片隅で重く鳴る。自分の夢に入ることはできない。つまり、逆縫いで自分を完全に守ることはできない。連続で同じ夢者に同じ歌を使うことも禁忌だ。もし忘却が進めば、夢から帰れなくなる。代償は言語の欠落、幼い記憶の消失、そして次第に歌声そのものを奪うことになる。だが今は選択の瞬間だ。封じ歌の残りを取り戻すための戦いは間近に迫っている。

「私は、全部を消費するのはいやだ」天音はゆっくりと言った。声はまだ掠れていて、完全には出せない。蓮見は彼女の言葉に一瞬驚き、すぐにそれを受け止めて頷いた。「消費する案は確実に残響体を消すが、君がその代償を全て支払うことになる。君の声も、記憶も、かなりの部分を失う」蓮見の目はまっすぐで、科学者としての冷静さと、人としての哀惜が混じっていた。

「ならば、私の現在に刻み直す」天音が答えた。言葉は思ったよりも軽く出た。記憶をなくすのではなく、主題を自己の“現在”へ掘り直してしまえば、残響は依拠を失う――というのが彼女の直感だ。前世の悲劇は、主題が外部の誰かに依存してしまったことから生まれたのではないか。もし主題が歌手の現在にしっかりと結びついていれば、忘却の連鎖は連合の装置に吸い上げられることはないはずだ。ただし、それは容易ではない。歌を自己に刻む行為そのものが、歌手の一部をテープへと移すような代償を伴うのだ。

硝は微笑んだ。血走った目が優しさで濡れている。「今度は俺たちがアンカーを強くする。擦れる音はお前が戻るための縄だから。位相の逆流は蓮見に任せる。真白、君は残響をその場で縛る。ココロ、連合の動きを押さえてくれ」

ココロは小さくうなずいて、鞄の中から小さなカセットを取り出した。それは地下で回収した短尺テープの一つだ。ラベルは剥がれ、磁気の波形が不規則に走っている。「連合は、これを流通させて夢を商品化している。今夜はこのネットワークがいくつか同時に動く。私が抑えられるところは抑える。だが現場には人数がいる。君たちだけじゃ足りないかもしれない」

作戦は具体的になっていく。蓮見は端末で時間合わせをする。真白は夢の中での縛り方を説明する。硝はアンカー装置の最終形を倉の片隅で組み上げ始める。その装置は改造ラジカセと小さなモーター、磁気ヘッドの微調整で構成されている。硝は指先でゴムベルトを触り、慎重に力を込めた。「擦れる音は単なるノイズじゃねえ。音の位相と指の圧力が一致すると、脳の夢回路で“触れ”が起きる。あれがアンカーの肝だよ」

天音は自分のカセットを取り出した。封じ歌の一行。薄れたインクが、まだ何かを訴えているように見える。彼女はその紙を指に挟み、ゆっくりと目を閉じた。自分が前世の歌い手である確信が、胸の底で微かに震える。だが確信は同時に恐怖でもあった。前世と同じ運命を辿るのか。硝のために、自分はどれほどまでに犠牲を払えるのか。

その時、真白が来て彼女の肩に軽く手を置いた。「天音、お前は一人で歌を失うな。俺はお前の主題を縛るために、別の旋律を重ねる。二つが重なると忘却の循環を断てる。だがそれは、俺のやり方だとお前の声を少し奪う。代償の分配だと思えばいい」

天音は静かに笑った。それが笑いだと気づくのは、少し時間がかかった。笑いは不意に出て、肺の中で震えた。「分け合うのね。嫌な言い方だけど、悪くない」

蓮見が実験を始める合図を出した。小さな装置に周期ビープのサンプルを流し、位相を反転させる。初めはグラフが歪んで、ノイズが増幅されるだけだった。だが蓮見は冷静にパラメータを修正し、微細な調整を続ける。やがて二つの波形が逆相に近い瞬間を作り、装置内の小さなLEDが一瞬だけ白く飛ぶ。「来た」蓮見の声が小さく震えた。モニター上で波形が逆流を示し、模擬装置のコイルが微かに振動する。成功だ。ただし成功は実動段階の初歩であり、実戦の不確定要素は山ほど残っている。

「次は実物の再現だ」蓮見が言った。「我々が逆流させたいのは、連合の識別子が刻まれた実機だ。模擬では位相が安定するが、本番では環境ノイズ、電源の差、磁気の汚れが相殺する。だが可能性は示せた」

真白が唇を噛んだ。「俺は残響を縛る。だがその間にお前は主題を再刻印する。お前の現在に落とし込むんだ、天音。俺の歌で残響を緩めておく。お前はその間、封じ歌の全文を歌い直す。時間は短い。だが一気に刻み込めるはずだ」

計画は固まった。連合の拠点が複数に散らばる夜、蓮見が逆流を起こし、硝のアンカーが天音の帰還を支える。真白は夢の縛りを引き受け、ココロは現場の動きを封じる。全てが同時に動く必要がある。失敗できない。失敗すれば、天音は帰れない。代