ビデオ怪獣館の館主

ビデオ怪獣館の館主 第9話「第8章」

朝の港は、まだ潮の匂いと紙の匂いを纏っていた。夜の倉庫で嗅いだ灰の匂いは地面の下に沈み、街路樹の葉に冷たく貼りついている。昴は肩から濡れたジャケットを下げながら、拾った復刻上映のポスターを眺めた。赤い焦げ紋のスタンプが、まるで古い映画のクレジットみたいに紙面に押されている。そこには「高辻上映会・本日」と新たな文字が加えられていた。三日後のはずだった日付が、いつの間にか今日に変わっている──還写館は予定を早めて、街の目の前で上映を始めたのだ。

朝の港は、まだ潮の匂いと紙の匂いを纏っていた。夜の倉庫で嗅いだ灰の匂いは地面の下に沈み、街路樹の葉に冷たく貼りついている。昴は肩から濡れたジャケットを下げながら、拾った復刻上映のポスターを眺めた。赤い焦げ紋のスタンプが、まるで古い映画のクレジットみたいに紙面に押されている。そこには「高辻上映会・本日」と新たな文字が加えられていた。三日後のはずだった日付が、いつの間にか今日に変わっている──還写館は予定を早めて、街の目の前で上映を始めたのだ。

「早まったか……」春子が端末を覗き込み、眉根を寄せる。彼女の声には疲労が混じるが、手つきは冷静だった。端末の中で、還写館の告知映像がループしている。古いオルガン音とシンセの合成音が薄く重なり、その下でラジオのようなノイズが周期的に割り込んでいる。昴はそのノイズの断片が、夢に出てくるあの声と同じ波形に近いことに気づき、胸に小さな不安が生まれた。

「彼ら、表のイベントで人を集めるだろう」風間力が名刺入れを押し込みながら言った。「上映を見に来た人間の『視線』を利用する。観られること自体が物語を成立させるって理屈だ。子どもや主婦、映画好き──そういう人たちの注目が、一斎に怪獣の“物語強度”を上げる。やられたら──手遅れになる」

「観られることで怪獣が強くなる」こたろうが呟いた。言葉の端に、まだ昨夜の忘却の白い渦が残っている。彼は自分がどれほどのことを忘れているのかを測れず、目だけがぎょろりとうつろだった。彼の掌に残る鍵の冷たさを、昴は内心で確かめる。鍵はまだそこにある。だがそれが何をもたらすかは、まだわからない。

街角には、既に復刻上映の宣伝が張り出されていた。ポスターの絵柄はどれも粗い粒子で構成され、怪獣の輪郭がフレームの中に滲んでいる。子どもたちが集まり、小さな紙と色鉛筆で自分なりの怪獣ポスターを作っていた。絵の中央には、誰かが真新しい赤いスタンプで焦げ紋を押している。「こっちの怪獣は強そう!」と笑い声が弾む。子どもたちの視線は歓喜で満ちていて、昴はその無邪気さに胸が痛んだ。

「見られることで強くなるんだ……」春子が静かに言った。「つまり私たちが一生懸命に怪獣を退ければ退けるほど、別の誰かがその勇姿を見てしまって、また怪獣が力を得る。ジレンマよ。私たちの行動が、新しい“語り”を生む可能性がある」

春子は小さな袋を取り出した。中には淡く光る薬瓶が三本、スポイトが一本。彼女は修復士としての誇りと倫理の境目を踏み越えた顔で、薬剤を見せた。「これがさっき話した、ノイズを抑えるための処理剤。フィルム表面に塗ることで粒子の散乱を抑え、映写の輝度閾値を少しだけ下げられる。つまり同じ効果を出すのに、必要な“光”を弱められるから、消費する記憶量もいくらか減るはず」

「いくらか、ね」昴がつぶやいた。彼はその“いくらか”という言葉に大きな意味があることを理解していた。代償は代償だ。映写の光が弱るほど、出せる怪獣は不安定で、制御が難しいという副作用もある。春子の薬剤は、いざという時の延命処置にすぎない。

「副作用は?」風間が聞く。記事になるかもしれない事象の全体像を彼は押さえようとしている。

「フィルムそのものが痛む。粒子の結合が緩むから、長時間の投影には向かない。それと、抑えた怪獣は物語的な“輪郭”が薄れるから、場合によっては空白の触手に対して効くどころか、歪めてしまう恐れがある。最悪、見た者の記憶に異常なノイズを残すかも──」春子の眼差しが硬い。彼女は技術者としての無慈悲さと、誰かを守りたいという情の間で揺れている。

街はすぐに分散ラインを見せた。還写館は複数の小規模会場で上映を始め、幾つかは露店の集合する商店街の前で、幾つかは図書館や公園の仮設スクリーンで行われている。各地で「白化」の噂が既に上がっていた。看板の文字が薄く、写真の縁が白く剥げる。だが人々は映画館のポスターに群がる。子どもたちは自分の描いた怪獣ポスターを嬉しげに掲げ、通行人の視線がそこへ注がれる。その視線の総量が、見えないスライドを回転させるように、怪獣に対する“語り”を育てていく。

「分散して行動しよう」昴が決める。声は低かったが、確かだった。「俺は東側の元町広場の小スクリーンに入る。春子はフィルムの処理を続けて。力は取材を続けてくれ。こたろう――自分の調子を見て。無理するな」

こたろうは小さくうなずいた。だがその目は、まだ何かを取り戻せない空洞を抱えていた。「わかった……でも、もし僕が抜けることで誰かが困るなら、言ってくれ。俺、手伝う」

昴は彼の肩に手を置いた。ほんの短い感触だが、それだけでこたろうの呼吸が少し落ち着く。だが春子の顔を見ると、彼女はすでに二つの小箱を抱えていた。フィルムを保護するための薄い紙のケースと、薬剤のバイアル。彼女の判断は確かだ。だがその確かさの裏には、常に犠牲の計算があった。

東の広場に着くと、薄い人工光の下で小さなスクリーンが設えられ、既に十数人が座っていた。スクリーンの端には還写館のスタッフが白いシャツで笑顔を振りまき、薄いラジオ的ノイズをBGMにしている。近くには子どもたちのポスターの山が積まれ、焦げ紋の赤いスタンプが規則的に押されている。ポスターは街の視線を集め、集められた視線は怪獣の力を育てる。昴の胸はぎゅうと締め付けられた。

「どうする、短時間で引き離すか?」春子の声が耳元で囁く。彼女は小さなフィルム缶を昴に渡した。その缶にはチビノイズのような小さな映像が入っている。使えば局所的には空白を押さえられるが、使うたびに昴の記憶が削れていく。

「まずは弱い奴を出す」昴は答えた。「観客の注目をなるべく個別に分散させる。集中視線を生む前に、怪獣を局所的に散らして動きを止めるんだ。春子、薬剤を薄目で塗ってくれ。できるだけ光を抑えて投影する。あとは──俺の代償の管理は俺に任せて」

春子は何も言わずに頷いた。彼女はスポイトで薬剤を微量滴下し、フィルムの表面を丁寧に拭う。粒子が少し落ち着き、フィルムはマットな黒に変わる。だがその黒は脆さを含んでいる。春子はその脆さを見透かしているようだった。

昴が映写機の前に立つ。古い機械を撫でると、それは彼の手のひらに冷い振動を返した。投影の条件を確認する──フィルムがしっかりかかっているか、絞りが正常に動くか、光の輝度が底辺から段階的に上がる設定になっているか。彼は閾値を必要最小限に調整した。映写光がスクリーンの白を撫でる瞬間、粒子の匂いとパチパチというノイズが空気に漂う。春子の薬剤がなければ、もっと強い光が必要だっただろう。今は少しだけ、安定している。

スクリーンの中から、粒子で組まれた小さな怪獣が姿を現した。映画的な間を持たせた動きで、チビノイズは観客席の端をかすめるように駆けた。誰もが驚いて顔を向ける。そこに集まった視線が、新しい物語を立ち上げる。しかし昴はスクリーンに背中を向け、胸の奥が冷たくなるのを感じた。視線は必ず何かを生む。彼の行為は誰かの記憶を消すための選択であると同時に、別の誰かの視線を刺激して新しい怪獣を育てる可能性を孕んでいる。

最初の投影の代償は、想像よりも早くやってきた。光を落とし