ビデオ怪獣館の館主 第10話「第9章」
夜の帳が下りると、高辻の中心広場はいつもより薄く色を失って見えた。還写館が設えた大スクリーンは白い面を晒し、周囲に並んだ投光機の輪郭だけが金属の冷たい光を放っている。スピーカーから流れる低いオルガンの音は町のあちこちで反響し、そこへ微かに入り込むのは、幼い頃に聞いたようなラジオの声の断片だった。声は記憶の皮膜を擦るように、どこか既視感のある旋律を繰り返している。焦げ紋の入ったポスターの赤い印が、街灯の下で不吉に震えた。
夜の帳が下りると、高辻の中心広場はいつもより薄く色を失って見えた。還写館が設えた大スクリーンは白い面を晒し、周囲に並んだ投光機の輪郭だけが金属の冷たい光を放っている。スピーカーから流れる低いオルガンの音は町のあちこちで反響し、そこへ微かに入り込むのは、幼い頃に聞いたようなラジオの声の断片だった。声は記憶の皮膜を擦るように、どこか既視感のある旋律を繰り返している。焦げ紋の入ったポスターの赤い印が、街灯の下で不吉に震えた。
昴は広場から少し離れた裏通りに立ち、コートの襟を立てて空気を吸い込んだ。彼の掌には、いつものように錆びた鍵が収まっている。鍵先は冷えて、はっきりとした重みが指先に伝わる。春子は薬剤を細かく分配するために裏手のカバンを抱え、こたろうは子どもたちをまとめるべく小さな紙芝居箱を背負っている。風間――力は、広場の別動点に置かれた情報拠点で静かに端末を操っていた。だが、その眼差しはどこか遠く、いつもより硬かった。
「奴ら、やりやがったな」春子が低く言った。息の白さが夜風に溶ける。彼女の手は震えていない。技術者はいつだって冷静だが、その瞳の端に怯えが滲む。昴は黙って頷くだけだった。今夜は「注目の分散」を狙う作戦の夜だ。風間が設計した時間差の合図、こたろうの子ども向けの騒ぎ、春子の薬剤での小規模修復。すべては集中する視線を散らし、還写館の計算を狂わせるための布石だった。
だが還写館は一枚上手だった。夜八時を告げる街の時計が零れ落ちるように針を進めると、スクリーンは白い顔を開き、会場に集められた群衆の視線を一つにまとめる罠の目玉になった。昴のラジオから再生される声が微かに増幅され、風間の耳元の端末にも還写館側が流す同じ波形が捕らえられていた。力はそこで、顔を掠めるように見た。ログ――過去の通信記録。そこには見覚えのある名刺のスキャン、そして彼の名前。だがそれは「協力者」として、還写館の研究資料に記されていた。
「た……風間、何だこれは」こたろうが震えた声で言う。子どもたちの合唱が遠くで途切れないのを確かめ、彼は不快そうに首をかしげる。風間は表情を崩さず、しかし口元に微かな苦笑いを浮かべた。「昔の話だ。研究の一部にかかわったことはある。だが、あの連中と組んだのは――偶然だ、偶然の接触だ。誤解させるように見せる資料を作られたんだ、きっと」
その言い訳は薄紙のように脆く、昴の胸の中で轟音になった。彼は力の瞳を真っ直ぐに見返した。視線はいつだって嘘を暴く。力は答えなかった。代わりに広場の方で、スクリーンがいよいよ場面を切り替えた。映写は小さなノイズを伴い、フレームが飛ぶ度に空気が震える。その瞬間、広場の一角に不穏な波紋が広がった――看板の文字が白く溶け、カフェの窓に飾ってあった家族写真の色が薄れていく。人々がざわつき、スマートフォンを掲げた手の先から画像が消えかけるのを誰もが見ていた。
「白化だ」春子の声に、こたろうが飲み込むように息をして肩を強張らせる。白化は局所的に起こる。ある瞬間までそこにあった物語の表面が、文字通り剥がれ落ちる現象だ。昴は自分の見ている光景を否定したくて指を目の前に翳したが、そこにあったポスターの角が、本当に灰色になって粉を吹いている。
広場の中心で、還写館のスタッフたちが動いた。黒いコートに赤い焦げ紋のバッジ。彼らは群衆の中に溶け込み、静かに人ごみを分け入る。昴の心臓は冷たく鼓動した。あのバッジの紋は序盤で何度も見た焦げ紋と同じ形だった。焦げ紋はやはり、ただのマークではない。何かを開く鍵のように、景色の中に混じっている。
そのとき、力が大きく動いた。彼は端末を地面に落とし、すばやく群衆の方へと走り出した。昴は瞬間的に彼の意図を理解した。彼は還写館の行動を阻むため、あるいは誰かを引き止めるために人波を割って飛び込んだのだ。だが人間の混雑は時として罠にもなる。黒衣の男たちが柔らかに、しかし確実にその動きを封じた。力は掴まれた。抵抗の気配はあるが、人数差が大きい。男たちは彼の腕を掴み、静かに押し込むように別の車両へ連れ込んだ。端末はこたつのように彼の膝から滑り落ち、キラリと地面で光った。
「風間!」春子が叫び、昴はその声に反応して走り出した。こたろうは子どもたちを連れて走るのをやめ、目をぎゅっと閉じた。だがそれはもう遅かった。黒衣の男たちは一人の体を運ぶようにして車両の中へ押し込み、スポットライトの眩しさの中で、力は短くこちらを見た。視線の中に、はっきりした恐怖と羞恥と、「すまない」という重い何かがあった。彼の口がほんのわずかに動いた。言葉は聞こえない。だが昴には分かった。力は――協力をしていたのではない。彼の過去の痕跡を還写館が利用しているのだ。だが利用されることと、利用に応じたことは別問題だ。群衆の歓声がそこへ流れ込み、彼の姿はまた車のドアの影に消えた。
胸の中で何かが割れた。昴はその場に立ちすくみ、やがて足を踏み出した。彼らは力を連れ去った。彼は謝罪するような小さな動作を見せたが、それはもう届かない。還写館は彼を逃がすためにその「名」を引き合いに出したのだ。今目の前で進行しているのは、単なる実験ではなかった。還写館は注目を集めることで空白を生成し、それを利用して動かぬものを動かしている。
「捕まえられて終わりだと思うか?」春子が冷たく言った。彼女の手の中で薬剤のボトルがカチャリと音を立てる。昴は鍵を更に強く握りしめた。選択はそこで迫る。責めるか、救うか。論理は昴の中で回転し、手が震えないようにとだけ願った。
「救う」彼は言った。声は静かだが決意がこもっている。「今夜で終わらせるわけにはいかない。あのまま連れて行かせはしない」
だが救うためには術がいる。還写館の彼らは観衆の視線を利用して通り一帯の輝度閾値を上げ、空白を成長させる。通常の短時間投影では追いつかない。昴は思案する。映写の法則――セルロイドフィルムを映写機にかけ、映写光が一定の輝度閾値を超えたときのみ映像を現実に引き出せる。今回は閾値をさらに上げ、巨大な怪獣像を生み出して還写館の注意をそこに引き寄せ、拘束の一網を崩す必要がある。だが閾値を上げるには代償がある。代償は――記憶の消耗だ。しかも大きな閾値は大きな消耗を意味する。
「誰が……」春子の声が震えた。「昴、どうするの。代償は――」
その時、こたろうがぽつりと歩み寄ってきた。顔は青ざめ、子どもたちに見せた笑顔の跡が無い。彼は小さな手を差し出し、昴の前でそれを差し出した。「昴、俺でいい。俺の記憶でいい。子どもの頃の、運動会の……そのシーンをくれ。あれを写してくれれば、あいつらの注目はそっちへ行くかもしれない。俺は――俺は、忘れても構わない。俺が忘れたところで、誰かの生活は守れるなら」
その言葉は、静かな夜に鉄槌のように響いた。こたろうの手は細かった。幼馴染の影がそこにあった。昴は一瞬、断固として拒絶したい衝動に駆られた。禁止事項――「映写中に現実の人間をそのまま投影してはならない」という規約は絶対だが、記憶を代価にすることは許されている。こたろうの申し出は、彼自身の記憶を商う行為だった。昴はそれを強制できる立場にない。だがこたろう