ビデオ怪獣館の館主 第3話「第2章」
朝の光は港から吹き寄せる湿った風に溶け、商店街のアーケードを淡く洗っていた。だがその光のなかで、いくつかの色が吸われるように薄れているのが目についた。子どもが描いた怪獣の落書き、看板の古びた猫の絵、店先に並べられた紙のポスターの輪郭──見る間に、赤や青が白へ溶けていく。色の消えた部分に指を触れてみると、紙の繊維だけがざらりと残り、そこにあったはずの絵柄は指先からすり抜けるようだ。
朝の光は港から吹き寄せる湿った風に溶け、商店街のアーケードを淡く洗っていた。だがその光のなかで、いくつかの色が吸われるように薄れているのが目についた。子どもが描いた怪獣の落書き、看板の古びた猫の絵、店先に並べられた紙のポスターの輪郭──見る間に、赤や青が白へ溶けていく。色の消えた部分に指を触れてみると、紙の繊維だけがざらりと残り、そこにあったはずの絵柄は指先からすり抜けるようだ。
「消えてる……」店の奥から老婆の声がした。何気ない言葉に、周囲の空気が小さくひび割れた。
昴は商店街の端に立ち、軽く顎を引いた。胸の内にぽっかりと空いた穴はまだ乾かず、朝の風に冷たさを残している。映写室での夜の代償は、彼の中で新たな重みを作っていた。母との夕景はもう手に取れないフィルムの一コマになってしまったが、それは彼の覚悟を鈍らせはしなかった。守るべきものが減らない限り、使わねばならないことは明白だった。
白い犬が角を回って現れ、彼の足元に座った。犬は見るからにやせてはいたが、毛並みは清潔で、瞳は異様に落ち着いていた。しばらく犬と目を合わせていると、犬はにおいを嗅ぐように鼻をぴくりと震わせ、商店街の奥へと歩き出した。歩幅は遅く、それでも確かな目的地へ向かっているのが伝わる。犬の後ろを追うように、昴は歩き出した。
「青柳さんか」人の声。名乗られた。昴が振り向くと、背広の襟を立てた男が一枚の写真用カードを掲げて立っていた。名刺を差し出す仕草だった。男は三十代半ば、やや細面で眼鏡の奥の瞳が休まず動く。空元気がにじむ笑みを引っ張っていた。
「風間力です。地域紙――いや、昔は雑誌をやってまして。高辻の白い穴について、取材させてもらえませんか」
その声には好奇心と、過去の編集会議で鍛えられた、相手の弱点を探る早業が混ざっていた。名刺には小さく「高辻タイムズ」と印字されている。昴は無言で名刺を受け取り、簡単にうなずいた。誰かに見られることは、助けの一形態になりうる。
「昨日の夜、映写室でのことは……?」と風間が尋ねた。言葉の刃が、薄く光る。
昴は少しだけ顔を伏せた。チビノイズの出現、そして母の夕景が薄れたこと。説明を始めれば、彼はまた代償と向き合わねばならない。だが風間の視線は冷静で、敵でも味方でもない人間の興味としてのそれだった。
「映写を――使った」昴は喉の奥から出すように言った。「小さな試しだった。代償があった。けれど、消えるものがあったら放っておけない」
風間は名刺をそっとポケットにしまい、周囲を見回した。人々はまだ何が起きているのか気づかず、朝の商いを続けているが、子どもの一人が指さして顔を曇らせた。落書きの怪獣が白くなりかけていた。犬はその指差す先に鼻を寄せ、立ち止まった。鼻先で紙の角をくんくんと嗅いでいる。
「空白現象ですね」と風間が低く呟く。「僕はここ数日、町の端々でそういうのを見て回っている。写真が白化したり、表札が文字を失ったり。消え方が音もなく、静かすぎる」
春子が来ると、二人は自然と三人になった。彼女は映写機のノズルの油の匂いをまだ引きずった手で胸の前を押さえ、顔には疲れの筋がある。だが目は鋭い。彼女は床に落ちた紙の端を拾って指先で触れ、目を細めた。
「これは、単なる紙の劣化じゃない。粒子が抜け落ちるみたいに“語り”が抜けていってる。写真の被写体が持っていた『語り』が削がれると、こうなるのよ」
風間はうなずき、メモ帳を取り出して走り書きをする。彼の筆跡は早いが整理されている。ときおり、周囲に目配せをして証拠写真を撮る。犬は疲れたように体を伸ばし、掲示板の古いチラシの端を鼻でめくっては、そこにあるポスターの一部をじっと見つめた。ポスターの角に、微かな焦げ紋が透けて見える。昴はその印に目を留めた。焦げ紋。薄く、しかし規則的な模様が紙の端に残っている。記憶の中で、映写室にあった焦げ紋と呼応する何かが、ここに確かにある。
「還写館のポスターだよ」風間が低く言った。「表向きはクラシック映画保存会ってことになってる。だけど、見たかぎり彼らの上映チラシにはこの紋様──焦げ紋が入ってる。あちこちの倉庫や掲示に貼ってあるのを確認した。偶然かもしれないが、目立ちすぎる」
春子はその言葉で顔色を変え、手に持っていた布で指の跡をさっと拭った。昴は喉の奥がきゅっとなるのを感じた。還写館という名が、案内のない暗い通路のように胸の奥を伸びていく。彼らの関係はまだ定かではない。だが、還写館の名が出た瞬間、全員の視線が一つの線でつながった。
白い犬が首を振り、路地の細い先に匍匐するように置かれた一枚の写真の束を見つめた。犬は写真の上に前足をかけ、鼻先でそっと一枚をめくる。そこには商店街の十年前の写真があり、行事で寄せられた町の顔が並んでいた。写真の四隅には、ほのかな焼け跡が刻まれている。焦げ紋が、古い一枚にも刻まれているのが見える。犬は写真のある一点をじっと見つめていた。そこには小さな子どもの膝の上に白い子犬が座っている。写真の犬は白犬によく似ていた——尾の巻き方、耳の立ち方。白犬は、過去の残像を嗅ぎ取っているようだった。
「犬は何かを覚えてるみたいね」春子が囁いた。「消えかけている記憶の残滓を嗅ぎ分ける能力があるんじゃないかしら。子犬の記憶、町の匂い……そういうものに敏感なんだと思う」
風間は写真を片手で持ち上げ、ぽつりと言った。「記憶を守るのは、器だけじゃなくて、そこに触れる生き物の感覚かもしれない。映像だけが語りじゃない」
犬が鼻を鳴らして立ち上がると、三人はその後ろについて商店街の奥へ歩き出した。白い瘤のように空白が沈んでいる交差点に近づくと、空気が少し重く、音が薄くなるのを誰もが感じた。子どもの笑い声が遠くなる。小さな露店のおばさんが目の前のパンの袋を見つめ、商品のラベルの文字の一部を忘れているように指先が止まった。
昴はポケットから小さな缶を取り出した。昨日、映写室から持ってきた短い怪獣フィルムだ。表面には擦り傷があり、スプールの端に春子がつけた修復のテープが貼られている。彼はその缶を握りしめ、映写機を使うかどうかを数秒間だけ迷った。映写は有効だ。映写の光は境界を開き、物語を呼び出す。だが、そのたびに何かが失われる。昨日の夜から彼はそれを知っている。
「短いのでやる」春子が先に言った。「長いことはできない。閾値は上げない。輝度は低めに抑えて、短時間だけ露光する。それでどれだけ食い止められるか試すのよ」
風間は瞬間的に眉を寄せたが、賛同した。「取材にもなる。情報が残れば、還写館のことも紙で追える。だけど、覚悟はしといてくれ。どれだけ短くても、何かは失われるかもしれない」
昴は答えなかった。彼の手のひらに、昨日の夜に切り取られた夕景の余熱がまだ残っている。失いたくないものは思いのほか多い。彼は自分の中で秤を揺らし、最小限の代償で最大限の効果を得る方法を選ぶことにした。映写の閾値を下げる──だが、その分効果は限定的だろう。だが今は、子どもたちの落書きが消えゆく前に何かを差し出さねばならない。
映写機は商店街の空き地に臨時で据えられた。映写室から運んできた機材は古く、歯車の隙間